第25回『このミス』大賞 1次通過作品 80億の配管図
殺人もない。暴力もない
主人公はただひたすらに相場を観測する。そんな小説である
しかしながら本作は、人間ドラマとどんでん返しを堪能できる希有な一作なのだ
必読である
『80億の配管図』宮川耕
ひとことでいえば、相場の小説である。しかしながら、それがミステリ好きの読者に強烈に響くのだ。
主人公である水口渉という青年は、五反田の雑居ビルで、情報の注釈や分類といった品質評価業務を行っていた。自分の感情を持たず、ひたすらに作業を続けることが求められていた。やがて彼はその適性を買われ、海外の金融リサーチャーの一次情報を日本市場向けに翻訳・編集し、配信する業務を担当するようになる。
そうした業務を行うなかで彼は、ある一つの法則、あるいは構造を見出す。記事における感情の強度によって、配信した記事に対する反応が異なるのだ。煽り記事によって誰かが儲けている。それを上司に伝えたところ、水口はあっさりと馘首されてしまった。
その後彼は、雑居ビルの五階に事務所を構える九条という相場師の元に通うようになる。週に一度。金曜日限定。水口の相場観測を、九条は聞く。聞いて問いを投げる。水口が回答する。それだけのやりとりだったが、水口は、さらなる気付きを得る……。
繰り返しになるが、相場の物語である。そして、水口という青年の物語である。水口は相場が動く様を観測し、株価が変動する理由を探り続ける。そうしたなかで、社会における彼の立ち位置が変化し、また、彼の心も変化する。思惑と欲望の集合体である相場、一方で一人の人間として自分の心を持つ水口。その両者を、この小説は鮮やかに関連付けて描いているのである。その変化や発見がなんとも刺激的で、次々とページをめくってしまう。なお、前者については、相場に振り回される何人もの人間を、その変化を含めて多様に描いていて、本作を高評価する要因の一つ(その中心に据えるものではないが)となっている。
エンターテインメントとしては、水口の心の揺らぎは、相当に抑制されて描かれている。さざ波に見えるかもしれない。だが、それでよい。読み手にはきっちりと伝わってくる。白い半紙に書かれた墨字は、それがいかに薄かろうとしても、明らかに可読だ。本書においては、水口にサチというパートナーを与えているので、なおさら鮮明に彼の心が伝わってくる。逆説的だが、さざ波であることが個性として機能しているのだ。
本作を読んで更に思う。人と人との出会いは偶然であり運命であると。そうした人間ドラマである本作は、相場において、様々な発想の転換や因果の逆転といった“どんでん返し”も愉しめる小説である。ミステリファンの胸に深く響くのだ。
静謐で、新鮮で、熱い小説である。表面的なミステリ味は他の応募作と比較して薄いが、これを推さない手はない。
(村上貴史)







