第2回『このミス』大賞 1次通過作品

『昭和に滅びし神話』 横山仁

歴史は不可逆なものです。「もし」という可能性はありません。

 これは非常に残酷な小説です。なぜならば、決して覆すことのできない歴史的事件を題材に選んでいるからです。ご存じの通り旧日本陸軍は、中国東北部に宣統帝溥儀(ふぎ)を頂いて満州国を建国しました。本作では、その満州国建国前夜の秘話が描かれています。

 主な登場人物は、関東軍参謀として満州国の礎を作った石原莞爾(かんじ)。その手足となって暗躍する張紫勇。上海にあって、関東軍特務機関のために働くスパイ・川島芳子。彼らの目的は崇高です。中国大陸を戦乱の泥沼に巻き込まぬため、石原が立てた秘策を元に闘っている。それが実現すれば、戦争は中国東北部のみの局地戦で食い止められるはずなのです。

 しかし読者は歴史をご存じでしょう。陸軍が火種をつけた戦火は、結果として中国全土を巻き込み、膨大な数の犠牲者を出すことになりました。物語の後半では、その滅びの序曲が描かれています。崇高な目的のために立ち上がった者たちが、惨めに鏖殺(おうさつ)されていくさまに、読者は心を奪われることでしょう。特に張紫勇が懇意にしていた女郎の死にざまは、残酷非情なものです。この残酷さは、単なる嗜虐趣味ではありません。人間存在の矮小さを描き、巨大な歴史のうねりを読者に体感させるために、どうしても必要な描写なのです。あえてこの場面を描ききった作者に、確実な筆力を感じます。

 小説は、中国共産党によって捕らえられ、日本軍の手先として「偽満」と罵(ののし)られた川島芳子が死刑場に引き出される場面から始まります。長い物語は、「邯鄲(かんたん)の夢」のように、川島芳子がつかの間見た幻想であったかのようにも思われます。幻として滅びさった一つの理念。それが描かれた物語でした。『昭和に滅びし神話』という題名には、そういった意味がこめられています。

(杉江松恋)

通過作品一覧に戻る