第23回『このミス』大賞 1次通過作品 私の価値を愛でるのは? 十億円のアナリスト
個人が株式として売買される社会
七億円の市場価値を持つアナリストの個人株が
ある日一気に買い占められた――
『私の価値を愛でるのは? 十億円のアナリスト』松井蒼馬
株価は市場で決まる。その株価に発行済み株式数を掛けた値が、時価総額である。会社の価値はこれによって数値化される。
本書が描くのは、それが個人でも可能になった社会だ。個人でも自分自身を上場することで株価として値が付き、トータルで「自己総額」として評価される。主人公の広野千花は、自己総額が七億円の二十九歳だ。証券会社のアナリストとして、かつては企業の、そして現在は個人の分析を行い、その目の確かさが高く評価されている。
自身の株価が好調に推移していたある日、千花を衝撃が襲った。千花を買収しようという動きが発覚したのだ。TOB(株式公開買い付け)という企業買収ではしばしば用いられる手法だったが、個人をターゲットに用いられた例はない……。
この小説、まずは設定が素晴らしい。著者が現代社会に持ち込んだ“嘘”は、「個人でも上場可能」という、そのたった一つの設定だけ。それがどうビジネスに結びつき、人々を動かしていくかについては、読者が生きている世界のロジックがそのまま用いられており、理解しやすく、また、説得力も感じやすい。さらに、「自己総額」というアイディアに基づいて生み出される新ビジネスの新鮮さでも愉しませてくれる。
そうした魅力的で馴染みやすい作品世界で、千花が陥る危機もまた新鮮だ。買収が完了したら千花はどうなるのか。買収された企業のように、自分の行動を支配されることになるのか。あるいは、美味しい部分だけを搾取され、残りは捨てられることになるのか(まさか)。また、TOBを仕掛けたのがライバル企業のトップアナリストである江木(彼の自己総額は十億円である)ということは判明しており、江木はその動機を「千花を妻にするための公開プロポーズ」と表明しているが、その真の狙いにも疑問が残る。
こうした大枠の刺激だけではなく、細部もしっかりと作られている。例えば、株式市場のルールがあり、大量の株式を江木が一気に取得することは不可能なはずなのに、それがなぜ成立したのか、といった小粒だがしっかりと舌に感じられる謎が提示されているのである(そしてそれをルールのなかで成立させる手法を謎解きとして示してくれる)。あるいは、江木が「公開プロポーズ」の狙いを千花に打ち明けるシーンがあるのだが、それもまた株取引のロジックを活かしていて驚かされる。もちろんTOBを巡る攻防も、正攻法と裏技の組合せで刺激的だ。そんな具合に、本作品は、世界全体から細部に至るまでぶれなく作り込まれていて、愉しく身を委ねられるのだ。
人物描写もまずまず。徹底的に個人を掘り下げるというよりは、キャラクターの描き分けを重視し、作品としてのスピード感を削がない記述量にとどめている感があるのだが、この作品であればそれが正解だろう。同様に、千花や江木、あるいは他の主要人物の過去や秘密を描くエピソードも類例的といえばそうなのだが(特に江木)、作品全体のバランスを考えると肯定したくなる。
この『私の価値を愛でるのは? 十億円のアナリスト』、タイトルはさておき、個人株売買を通じた刺激をテンポよく堪能できる作品として、ひたすら愉しく読了した。
(村上貴史)