第20回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 残照の海

日めくりカレンダーは五月二十日から破られていなかった。それは尚子の仕事だった。
「日めくりの薄紙は人生と同じ。知らず知らずに老いていく・・・私たちはそういう静かな夫婦になりたいの」
「海を眺めながら、ゆっくり人生の幕を閉じる夫婦になろう」
その約束で、クリスマスに郊外に食事に出かけたときに買った。
しかし、その作業を担当する尚子が出かけたのでそのまま放置されていた。
尚子の席もその日以来、一週間空席のままである。私だけが指定された席に座って夕陽を眺めていた。
尚子は八日目に戻ってきた。しかし、指定席からサイドテーブルへと席を移した。
尚子は白い布に包まれた四角い箱に収まっていた。
「夕陽を二人だけのものにしましょう」
 尚子はそう言って、海が見渡せるこのマンションを選び、夕陽を眺める時間を過ごすためのソファを購入したにも関わらず、その期間は僅かひと月あまりだった。
 夕陽を眺める席は、いつしか月を待つ席に変わった。それでもソファは海側に向いたままにしていた。
私が寝入った後、尚子が夜中にひっそりと現れ、自分の席から海に浮かぶ月をながめるかもしれない。夕陽であれ、静かに眠る尚子には眩しすぎるだろう。
風が尚子の長い髪を弄ぶのを私はベッドの中から夢うつつの中で見ていた。
久しぶりに現れた尚子は、夕日と月の色を解き交ぜたような紫色のシルクのブラウスをまとっていた。
開け放ったベランダの窓から、打ち寄せる単調な波の音がゆっくりと時を刻んでいた。
私は尚子を一人で行かせたことを後悔していた。
 予知能力に秀で、危機管理能力が高ければ尚子を一人で行かせなかった。一緒に行けば暴漢の二人か三人ぐらいであれば、自分の身を呈しても守ってあげられたかもしれない。私は自分の身を守る術を警察で身に着けていた。戦いの中で沸き上がるアドレナリンは職場の中では人一倍強かった。ダメージを受けるときには、相手にはそれ以上のダメージを与えるというのが信条だった。
相手が若く、腕っぷしに多少自信がある奴にも、けんかのやり方では負けない自信があった。一緒に行けば尚子を守れないはずはなかった。
 新聞記事によると、尚子の赤いビートルは筑後川の河川敷駐車場で黒く変色していたという。
タイヤが溶け、ホイールが焼け焦げたコンクリートと面を突き合わせている無残なモノクロの写真はあまりに残酷で流石に掲載されていなかった。事実を伝える小さな記事に留められていた。
解剖の結果、尚子は焼死ではなく、炎上の前に息を引き取っていたらしい。尚子は煙を肺に吸い込んでいなかった。喉の骨が骨折していたらしい。犯人は絞殺してから、尚子を運転席に座らせ、車内にガソリンをまき、火をつけたとのことである。
焼却して指紋とか証拠になるものを全て燃やしたかったのだろう。
だが、尚子は自分を特定できるように襟元のバッチを左手で強く握りしめていた。
「俺は慈悲深い男だ。生きたまま焼き殺さなかったのだからな」
と犯人は自供したとしても、私は断じて許しはしない。
尚子は、自分の頑な私の心情を解きほぐす唯一の女性だった。
命を奪われる恐怖と無念さを強いられた尚子の慟哭はいかほどだったか想像してあまりがあった。
法を学んだ尚子は私のやり方に賛成しないだろうが、亡くなっては私のやり方に口を挟めない。私は犯人に報復をする決心をして記事を引き破った。
法は人を諫めるばかりで、弱者は守らない。
それが私と尚子の相反する決定的な主張の違いだった。
私は、犯人を逮捕し、厳正な裁判の判決に委ねてきた。私は怒りをもって犯人を追い、、職務宣誓書を遵守し、過剰な狩猟心を押さえつけて犯人を逮捕してきた。
だが、今度ばかりはそうはいかない。私は自分なりのやり方で、思いのまま犯人を葬るつもりである。
裁判にかけるような生ぬるい手段に委ねるつもりは毛頭なかった。
「復讐は映画や小説の世界の美談であって断じて許されるものではない。犯罪はいかなる理由があっても厳しく取り締まる。われわれの使命は国民が安泰な生活を送れるように、人々の規律を乱す奴らを逮捕し、法のもとに償わせることにある。規律ある社会を守ることが我々の使命だ」
と、訓示した上司がいた。
りかかった火の粉は自ら払わなければ、その熱さから逃れることはできない。
規律を乱した奴らを規律の中で守ろうと訓示する上司は、たとえ自分の身に火の粉が降りかかっても、その熱さや怒りはわからないだろう。
私は刑事として職務上、集められる情報を全て集め、身に着けた武術や経験を最大限動員して自分流に裁くつもりである。
その結果、身を滅ぼすことになっても覚悟の上のことである。
現在を奪われれば、未来はやってこない。
 尚子は最愛の妻であり、彼女がいない世界は、私も没したのと同じだった。今後、失うものは自分の命以外なにもなかった。

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