第20回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 残照の海

『残照の海』

高治博(たかじ・はく)66歳
昭和29年生まれ。佐賀大学経済学部卒業。


 太陽は沈むのは早いが、水平線の残照はなかなかおさまらなかった。太陽が海を焦がしてしまったのかもしれない。月はベランダの西の空でとっぷりと闇が訪れるまで長い時間、出番を待たなければならなかった。
 私は二人掛けのソファの右側に深く腰を掛け、一日の終わりを待っていた。
ソファは尚子が無理やり私を連れ出し、市内の家具屋を何軒も回ってようやく探し求めたものだった。白の革張りで、シート部分が深く、背もたれは低反発で飽きるほど長い時間。そのままの姿勢で海をみつめることができる。両サイドの肘置きは椋木で焦げ茶色に塗装され、渋い光沢があった。角は猫の手のように丸くデザインされている。
ソファが搬入された日、尚子はひどく興奮していた。尚子は最高のシチュエーションを設定するため、福岡市内のワインの卸元に頼んでシャトー・マルゴを購入していた。
高級なワインだから飲んだ経験があったわけではない。外国の探偵小説で主人公が気取って飲んでいた。ムードある名前が脳裏に焼き付いていた。
尚子は残照よりもっと濃い色をしたワインを一口飲んで、
「このソファに座って沈む夕陽を眺めるのが夢の一つ目の夢だった」
と呟いた。
「二つ目の夢は?」
尚子は笑みを浮かべただけでなかなか応えなかった。そして愛おしそうにひとしきりソファの木部を撫でて、
「あなたの席は右側のそちらの席ね。私は左側。あなたの席には誰も座らせないから、私の席にも誰も座らせないでね。約束よ」
 と言って、形のいい唇を寄せてきた。
 潮風にさらされた尚子の唇はちょっぴり塩辛かった。長いキスは恋人同士のとき以来だった。
 二つ目の夢は、照れくさくて口にするのは照れくさい『永遠の愛』だった。
長い口づけが告げていた。
 ようやく尚子の唇から解放された私は、
「君以外のどんな魅力的な女性だって座らせやしないさ」
私は期待に応えた。
 私たち夫婦には子供がいなかった。
仮に娘に恵まれ、尚子とそっくりだったとしても尚子の席には座らせない。
その替り、尚子とそっくりな女の子が産まれたら、一人用の白いソファを特別注文することを密かに決めた。
私は悦に入った尚子の態度が好ましく、座席を指定したやり方が単純に楽しかった。
「グラスを置いて」
 肘置きと同様、椋木で作られたサイドテーブルは、薄暗くなった室内で重厚な落ち着きを漂わせていた。
 私は尚子の言葉に従ってテーブルにグラスを置いた。尚子は立ち上がり私の首に腕を巻かせて体を寄せてきた。私は優しく抱擁した。
小麦色に日焼けした尚子からは陽だまりの匂いがした。私好みのすべすべした肌だった。細身の尚子は私の腕の中にすっぽり包み込まれた。愛おしさが募ってくる。
 尚子はひとしきり胸に頬をよせてから顔を上げ、背伸びしてから私の唇をついばみ、舌を絡ませてきた。ワインの苦味が唾液でまろやかにブレンドされ熟成された味に変わった。私がおもむろにブラウスのボタンに手を掛けた。尚子は合わせた胸に僅かな隙間を作って自由な手の動きを許してくれた。尚子の肌は残照に焼かれて赤く染まっていた。しっとりとして残照を体内にとどめ温かかった。尚子は素肌の上に直接ブラウスを身に着けていた。乳房を窮屈に閉じ込めるブラジャーは尚子の好みではなかった。白い乳房は慎ましいふくらみをしていた。
私は前をはだけたままの尚子を抱きかかえて、月の明かりが差し込めたベッドに移動した。
照明を消したままのベッドの上で、月明かりを受けて尚子の肌は青味がかった妖しい光を放っていた。つんと上を向いた乳首が現れた。子供を宿した経験のない乳首は処女のように小さな蕾だった。私はしばし見とれ、こわれものを扱うように手のひらに包み込んだ。それから貴重な宝物をあがめながら、おもむろに乳首を口に含んで舌先でそっと跳ね上げた。
尚子は乳をねだる子を愛おしむように私の頭を優しく撫でて甘い喘ぎ声をあげた。
夜は長く、私たちの愛を邪魔する者はいなかった。
 その夜の尚子は、高ぶった興奮をもう一段、高みに持ち上げようとベッドの中では積極的だった。
ベッドテーブルの抽斗から小さな小瓶を取り出した。
「ひと夜限りの香水を買ってみたの」
 尚子は手首に一滴を垂らし一方の手首に匂いを移した。次に首筋にも・・・。
 それは、体に触れるとなかなか除けない香りの香水。欲望を狩り立てる目的で身にまとう粉っぽい匂いのような香水で品のあるものではなかった。
 尚子は、理性という鎧を脱いで娼婦の役を演じるつもりのようだった。
反面、わざとらしく、似つかわしくない尚子の演出だった。
そんなことをしなくても尚子は命の輝きを瞳に宿らせ、白い歯を輝かせ十分魅力的だった。
「とても魅力的だ」
 私は尚子の不可解な努力の意味を尋ねずに受け入れた。
 理由を尋ねてもおそらく尚子は笑顔でごまかすだけだっただろう。
一月後の昼過ぎ、尚子はトランクに荷物を詰め込みながら不安な表情を浮かべていた。
「出張?」
 と尋ねたが、曖昧にうなずくばかりだった。
 私は改めて、同じ問いかけをしようか迷った。
 だが、感情の揺れを悟られないよう誤魔化すために、小道具を準備していたのだろうと解釈した。穏やかな欲望が私を虜にしていた。
尚子は私との間に僅かなすき間も作らないように体を密着させた。そして私の体のぬくもりで十分温まると、上になって私を裸にした。私の体を眺め、胸を指先でなどり、ちいさな乳頭に唇を押し当てて歯を当てた。痛みと思いがけない強烈な快感が背筋を走った。
尚子は知的な女から淫らな女へと変貌したようだった。
快感に埋没しようとする懸命な努力は、尚子の心情の不安定さと相まってぎこちなかった。
私はそのぎこちなさが愛おしく、一層強く尚子を抱きしめた。
 ようやく、月は.哀愁たっぷりの太陽を追いやって、あやしい自分の世界を作り上げていた。

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