第20回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 坊っちゃんのご依頼

「マンションは、どこにありますか」
「池袋」
「駅から歩いて何分ぐらいですか」
「十分ぐらい」
「何階にありますか。部屋はいくつありますか」
「8階。ふたつです」
 もう4ヶ月も勉強しているのに、坊っちゃんは単語だけで答えてくる。自分の質問が単純すぎるせいもあるのだが、初心者と会話を弾ませるテクニックでもあるのだ。
 さてそろそろいちばん興味のある値段を聞くかと、夕香子は同じ調子でズバリと切り込んだ。
「いくらのマンションですか」
「5千万円です」
 いいなあ。
 そんな本音を漏らさず、そうですかとだけ返事をする。聞くだけ聞いたので会話を終わらせようとしたが、趙季立は中国語でガールフレンドに語り掛けた。
 話し終えた坊っちゃんが、妙に得意げな顔をしている。
 王萌佳は少し困った顔をしたが、仕方がないかという感じに通訳を始めた。
「あと1億円ぐらいのマンションを2つ買うそうです。合計3つですね」
 淡々と語るガールフレンドも、裕福な家庭の娘さんである。彼はお金持ちですねといたずらっぽく笑ったが、それほど驚いてはいなかった。
 またも、そうですかという返事しかできない。
 息子用にひとつ、残り2つは投資用で、一括で購入するとのこと。授業で語らせていい話題じゃなかったかなと反省したが、クラスメートたちは騒ぎもせずおとなしく聞いていた。
 なるほど200万円を諦められるわけだ。
 ああ、その飲み屋に一緒に行きたかったと、夕香子は本気で思ってしまった。
 濡れ手に粟で札束を手に入れたヤツがうらやましい。
 酔ってカバンを置いたまま、トイレにでも行ったのだろうか。暗がりでサッと取り出して店を出てしまえば、もう足はつかない。何人で山分けしたかはわからないが、ちょっとしたボーナスを手に入れた不埒なヤツらが本当にねたましかった。
「王さん、通訳をありがとう。上手になりましたね」
「いいえ、まだまだです」
「彼氏に注意してくださいね。日本にも悪い人はたくさんいますから」
「はい。気をつけます。今度は絶対にない。現金は持たないほうがいいと、私、もう注意しました」
 未来の嫁候補は、きっぱりと言い切る。
 どうしてこのふたりが付き合うことになったのが不思議だが、ダメな男が好きだという優等生女子は案外いるのだ。夕香子の友人にもそんなカップルがいたが、ダメ男を叱るのが楽しい身悶えしていた。ごめんなさいと、上目づかいに見上げられるのがたまらないのだという。趙季立も彼女に叱られ、今後は現金を持ち歩かないと上目使いのカメラ目線で言ってきた。
 なるほど、気分がいい。
 そのほうがいいと答えつつも、少し残念な気もする。
 どうせならガードが甘いまま、卒業までこの学校で過ごして欲しい。そして札束を教室に落としていってくれと、教師にあるまじき考えを抱いてしまった。
 現金なら、拾ってしまえばわからないもんね。
 しかし、最近の最近の若者はスマホで支払いするのだ。自分だって支払いはスイカの電子マネーしか使っていないし、現金に触れる機会はめっきり少なくなっていた。サイフは持ち歩いていないし、今日の所持金も定期入れに入ってる2千円だけである。
 そんな時代かと、夕香子は教科書を開く。
 すでに30分が過ぎていたが、時間が稼げたのはラッキーだ。授業時間が減るのは、生徒も教師もうれしいものである。
「では、今日の勉強を始めましょう」
 夕香子はカメラに向けて語りかけた。今週が終われば夏休みということもあり、普段以上にやる気が薄い。すでにライブ映像を停止し、文字だけの静止画に切り替えている生徒もいた。
 いちばん不マジメな趙季立も、姿を消していた。
 ライブ映像を消すでもなく、本人だけが不在である。堂々としたサボりっぷりは見事であり、空っぽの座椅子に向けて怒鳴るわけにもいかず夕香子は苦笑した。
 ふと、机のノートパソコンが目に入った。
 ゲーム好きでアニメ好き。それゆえ日本を留学先に選んだお坊ちゃんのパソコンに、大ぶりのポストイットが貼り付けてあった。数字とアルファベットの羅列の先頭に、丸で囲んだPの文字が付いている。
 何かのパスワードだ。
 たぶんオンラインゲームのログインに使うやつだろうと思いつつも、夕香子はそっと録画ボタンをクリックした。操作を間違えたふりをして、趙季立の画面を大写しにする。
 判別できそうなことを確認してから元に戻し、一部のマジメな生徒だけに向けた退屈な授業を終えた。

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