第20回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 坊っちゃんのご依頼

『坊っちゃんのご依頼』

小溝ユキ(こみぞ・ゆき)54歳
1967年生まれ。日本語教師。


 人懐っこい笑顔で語りかけてくるが、正直、何を言っているのか全然わからなかった。
諦めたのか母国語の中国語で話し始め、隣に座る優等生のガールフレンドが日本語に通訳してくる。
「彼は、お金を無くしました」
 だったらもっと悲壮な表情をしろと思いつつ、日本語教師の金井夕香子はパソコンのカメラに向けて大げさに驚いてみせた。
 週の半分がオンライン授業となり、モニターには中国人留学生の顔が並んでいる。授業開始時の雑談であり、最近の出来事を話させるのだが、いつも不真面目な趙季立は日本語がなかなか出てこない。夕香子はヒントになりそうな単語で質問を繰り出し、なんとか出来事を把握しようとした。
「落としたんですか。いくらですか」
「200。悲しいです」
 小銭だが、金持ちほど1円単位まで大切にするものだ。200円ですか、それは残念ですねと返事をすると、ふたりは必死に手を振ってくる。
「違います。200万円です。おとといの夜、お酒の店でなくしました」
「え、ちょっと待って。現金で200万円ですか?」
「はい。悲しいです。でも、仕方ない」
 習得語彙の少ない趙季立は、同じ形容詞をくり返す。確かに落とした現金は戻ってこないものだが、あっさり諦められる金額ではないだろう。少なくとも非常勤の薄給にあえぐ夕香子にとっては、身を切られるような大金である。
「警察に行きましたか」
「行きません。警察、コワイ」
「お父さんに、言いましたか?」
「はい、父、叱りました。でも、仕方ない」
 親の金だからか、あまり気にしている様子はない。
 趙季立はもっと語ろうとして口を開けたが、日本語はひとつも出てこなかった。諦めたのか再び中国語で話し始め、日本語学校以外に塾にも通っている王萌佳が、得意げに通訳を続けてくる。
「もう諦めました。落とした自分、悪い、言っています」
「でも大金ですよ。すごい多い。警察に行ったほうがいいです」
「落とした現金、戻りません。無駄です」
「もしかしたら戻るかもしれません。今日の帰りに警察へ行ったらどうですか。日本人はまじめで親切ですから」
「無駄です。現金ですから、仕方がない」
 まるで自分がなくしたように、夕香子はもったいないを繰り返してしまった。外国籍の留学生たちのほうが現実を理解しているようで、夕香子のしつこさを笑っているような気がする。
 ようやく自分のセコさを自覚した夕香子だが、もう少し事情を知りたかった。超金持ちのお坊ちゃんがどうして札束を持ち歩いたのか、日本語を話したがっているガールフレンドに向けて聞いてみる。
 彼女はモニター越しに中国語で話しかけ、返ってきた言葉を必死に知っている日本語に置き換える。そんな優等生を、入学して4ヶ月ほどのクラスメートたちはまぶしげに眺めていた。
「不動産屋に払うお金でした。銀行から降ろして、カバンに入れたままクラブに行ったんです」
「どんなクラブですか。踊るところですか」
「いえ、お酒を飲むところです。スナックかもしれない。若い人ばかり。そこで知り合った人たちと話をして、見せたそうです」
 どんな店かいまいちわからなかったが、気がついたら現金がなくなっていたとのこと。バカかお前はというコメントは控え、引っ越しのお金ですかと聞いてみた。
 来週から夏休みである。
 来日してまだ4ヶ月目なのに引っ越すのかと、少し気になった。何かトラブルがあったのなら、事務に報告すべきだとパソコンのスピーカーに耳を近づける。
 またも中国でのやり取りが行われ、ようやくガールフレンドが視線をこちらに向けてきた。
 ほかのクラスメートたちは飽き始めていたが、会話相手を決めるのは教師の特権だと、心で謝りつつ発言をうながす。
「いいえ、違います。最初に払うお金。頭金ですね」
「礼金敷金のことですね」
 スマホで単語を確認した王萌佳が、私は間違っていないとばかりに首を振る。
 さすが優等生、プライドが高い。他の学生はこのやり取りに飽きているようだが、もともとマジメに勉強するのは少数である。成金の派手な落とし物ストーリーに興味を持った夕香子は、お勉強を装って王萌佳との会話を続けた。
「マンションを買うので、それに使います」
 絶句する。
 留学する子どものために、日本にマンションを買う親の話は聞いたことがあったが、受け持ちの学生にいるとは思わなかった。金持ちの坊っちゃんだと聞いていたが、趙季立の親は桁違いの成金らしい。
 頭金か手付金かは不明だが、仮押さえのために現金を準備したとのこと。さっさと不動産屋に直行すべきなのに、こいつは札束をカバンに入れて友人と飲み屋に行ったのだ。
 まあ、そんな感じの青年ではある。
 全然勉強せず、遅刻も忘れ物も多い。2台持ちのスマホの1台を机の上に出しっぱなしで帰ったこともある、ガードの甘い劣等生なのだ。
 ただ、金持ち特有のおっとりとした品の良さはある。
 嫌なことや苦労とは無縁で育ってきたのだろうなと、モニター越しに目を合わせた。疑うことを知らないつぶらな瞳は、少しアホっぽい。質問すれば何でも教えてくれる坊っちゃんに、購入予定のマンションについていろいろ聞いてみた。

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