第20回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 不動の諜者

『不動の諜者』

柊悠羅(ひいらぎ・ゆら)21歳
1999年生まれ。大学生。


   序章
 人は一人では何も出来ない。必ず誰かに、何かにすがって、頼って、生きなければならない。この暗闘の二年弱で人類は思い知ったに違いない。
 これは勿論お金やものも勿論だが、実際心の問題が大きい。人間にとって心という概念は重要である。それはこの国で、年間二万人以上の人が自殺していることからも明らかだろう。
人は皆孤独とよく言われるが、人は孤独が苦手だ。だから何かにすがりたくなる、頼りたくなる。このある種強制的・自然的に発生する共助が、人類が繁栄した一因とも言えるかもしれない。
そのような哲学的な話はともかくとして、すがる対象は人によって様々だ。多くの人は家族や恋人、友人などを挙げるだろう。勿論会社の上司だと言う者もいれば、国家や宗教と答える人もいるかもしれない。そして、何か趣味を挙げる人も一定数存在する。俺もその実、今ここでは趣味を挙げる人間だ。
身体に衝撃が伝わった。それで初めて前に人がいたことを、そして彼とぶつかったことに気づいた。
「すみません」
「いえ。そこですよ、あなたの線」
「あ、どうも」
 定型文だけが流れた。皆それどころじゃないのだ。俺は床に貼られた白線まで下がる。
 今の衝撃で周囲の音が耳に戻ってくる。いつぶりの雑踏だろうか。これ程人が集まれる日がまた来るなんて、意外に想像できていなかった。だから何と言うことはないが、何故か少し感動した。
 上げた視線が看板の文字にぶつかる。
『My SeLection個別握手会会場』
 そう書かれた看板を見て、手元の握手券を見て、改めて実感する。
 俺たちマイセレファン、通称セレクターは実に二年ぶりの握手会に心躍らせていた。
 俺がすがるもの、それは言わずもがなアイドルだ。もっと言えばMy SeLectionであり、更に言えばそのメンバーの一人である鈴代瀬凪(すずしろせな)が俺のすがるものだ。彼女のお陰で俺はここまで生きてオレンジジュースれたと言っても、過言ではないかもしれない。
 多くの人にとっては、所謂アイドルオタクは奇妙な人種に見えるだろう。友達になれるわけでも、恋人になれるわけでもない相手にそこまで熱中し、そして貢ぐのだから。だが、普通のオタクはそんなことを望んでいるのではない。自分が応援し、成長して人気が出て、輝いている姿を見ることが幸せなのだ。彼ら彼女らの幸せが自分の幸せなのだ。だから、オタクはアイドルに熱中し、心の拠り所とする。日本人らしい考えだと常々思う。
「前へどうぞ」
 係員がそう告げて、列の先頭から順々に人の波が動いていく。
 二〇二一年も十月中旬となった。新型コロナウイルスのワクチンが一般人にまで普及し始めた。世の中は少しずつではあるが元の姿に戻ろうと努力していた。
 その一環として、徐々にではあるがこうしたリアルイベントが各地、各業界で復活し始めていた。
 とは言え、日本でのワクチン接種率は低く、現在でも未だ三割に満たない。秋頃には若者までワクチンが行きと届いているという予定だったが、例外なくこの予定は遅れている。よってこうしたイベントも、徹底的な感染症対策を講じて行われている。
 このマイセレの握手会も通常では数千から数万人が訪れるはずの規模を、たった千八百人に絞って行われている。よって尋常ではない倍率を勝ち抜いた、強運の持ち主たちだけがこの地を踏めるのだ。
 言ったそばから、目の前にアルコール消毒液のボトルと、非接触式体温計が待ち構えていた。非接触式の体温計は正確に温度を測れないことは誰もが知ることではあるが、未だに使用されていることからも『やっている』ことが大事であるとよくわかる。結局人は気持ち、心の問題なのだ。
 手指の消毒と検温を抜けると、次は手荷物検査だ。アイドルの握手会は安全面の対策もしっかりなされる。言うまでもなく、ファンとアイドルがゼロ距離まで接近するからだ。万が一危険物を持ち込まれでもすれば大事件だ。実際に痛ましい事件が起こっている。
 金属探知機で身体検査をされ、係員が手荷物の中身を確認する。正直な話、やり方を工夫すれば幾らでも危険物は持ち込めるだろうと思ったこともある。勿論そんなことはしないが、職業柄考えてしまう。
 検査場を抜けると大量の柵と、二メートルを超える案内のポールが三本、目に入る。ポールにはそれぞれ、『鈴代瀬凪』、『渡邊(わたなべ)玲(れい)』『竹田舞奈(たけだまな)』の三名の名前がそれぞれ書かれている。
 そもそも握手会は大きく分けて二種類あり、全国握手会と個別握手会というものがある。全国握手会というのは通常のCDを購入すると付いてくる握手券で参加することができ、どの会場でも、誰とでも握手することが可能である。しかし、握手できる時間は一枚につき五秒弱だ。CDを買えば買っただけ握手することが可能で、時折数百枚の握手券を持った猛者が会場をざわつかせる。
それに対し個別握手会はCD購入時から会場と握手したいメンバーを決めて応募し、当選した分だけ握手することが可能であるというものだ。こちらは一枚につき七秒程度握手することが可能だ。
 今回俺が来ているのは個別握手会の方だ。相手は鈴代瀬凪。今回は一人一枚までしか応募できないシステムだったので握手券は一枚だ。
 そして会場はインテックス大阪。ここに来るためにわざわざ東京から足を運んだ。当然交通費の方が握手券の二十倍以上なわけだが、彼女に会うための必要経費だ。
 俺は鈴代瀬凪のレーンに並ぶ。普段ならかなり並ばなければならないが、今日は人が少ないからすぐ順番が回ってくるだろう。
 にしても、彼女たちにこれ程人気が出るとは、信じてはいたが、いざ人気が出ると感慨深いなと、古参オタクの様なことを俺は考えた。

ページ: 1 2 3