第20回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み ククリの小姓 信長謀記

『ククリの小姓 信長謀記』

獅子宮敏彦(ししぐう・としひこ)60歳
1961年生まれ。文筆業。


織田信長が若かりし頃の『信長公記』には、気になる人物が四人いる。
信長の父信秀葬儀の場面に登場する筑紫の僧。甲斐に現われた天沢なる尾張僧。斎藤義龍が父道三を討った時に名乗った范可。信長の弟勘十郎を討ったという青貝なる人物。
彼らはいったい何者なのか。
柴田権六は、その謎を追い掛け、最後に気付く。
「今わかった。お前は俺にとってのククリヒメだったと――」
権六は、不吹をひしと抱き締めた。

第一章 波乱の葬儀
 
信長公、御焼香ニ出ズ。
抹香ヲくはつト御ツカミ候テ、
仏前ヘ投ゲ懸ケ御帰ル。

   一

天文二十一年(一五五二)四月――。
柴田権六勝家は、萬松寺の山門にて、織田勘十郎信勝を出迎えた。
勘十郎は、十八歳。折目正しい肩衣、袴姿で颯爽と馬にまたがり、平家の公達もかくやと思われる涼しげなる顔立ちは、蹴鞠や連歌に通じ、公家衆とも交流のあった父備後守信秀の風雅な一面を見事に体現している。
勘十郎の尻の辺りがキラリと陽光に煌めいているのは、黒漆の鞍に螺鈿の細工が施されているからだ。信秀も勘十郎も、白山を信仰していた。その白山比咩神社に、黒漆螺鈿鞍なる社宝あり。木曽義仲に仕えていた武将が奉納したものであるという。
信秀はこれを好み、同様のものを、それも一段と煌びやかにしたものを作らせて、自分が用い、勘十郎にも与えていたのである。このことが示す通り、勘十郎は、信秀と正室土田御前に鐘愛されていた。
「今日のことでは苦労を掛けた。あと少しよろしく頼む」
勘十郎に言われた権六は、慇懃に頭を下げる。
権六の背後には、佐久間久右衛門盛次、長谷川橋介、山田治部左衛門などが控えている。
「して兄者は如何に」
「いまだご到着にあらず」
「不吹の姿が見えぬが、どうしておる」
「忙しく働いてくれております」
「さようか。よく使っておるようだのう。気に入ってもらえてよかった。さればそなたたちが集めた僧侶衆にご挨拶してまいろう」
勘十郎は、下馬して山門を潜った。
その後に、佐久間大学盛重、大脇虎蔵、河辺平四郎などが続く。
織田信秀は、尾張随一の富強を誇っていた。しかし、弾正忠家においては、一ヵ月ほど前、信秀が病臥の果てに没したことを公表。この日、信秀の創建になる萬松寺において、葬儀が行われることとなったのである。
萬松寺は五万余坪の寺域を誇り、この日の葬儀には三百もの僧侶が集められていた。尾張国内の寺だけでなく、往来途上の僧まで連れて来たのである。そこへ信秀の一門衆、敵対することもあった清洲、岩倉の両織田家、虚名をとどめるのみとなっている守護の斯波氏からも使者が参じ、寺の外にも物見高い群衆が集まっている。
広大な本堂も人で埋まっていた。権六は、勘十郎のすぐ後ろにいた佐久間大学の隣に腰を下ろした。権六と大学は、共に勘十郎の家老をしている。
この盛大なる葬儀は、万事、勘十郎が取り計らったことになっていたが、実際は勘十郎の名を高めてやってくれと土田御前に頼まれ、権六が久右衛門や長谷川、山田らと準備に奔走したのである。武辺にしか興味のない大学は関わろうとせず、平手政秀や林佐渡守秀貞(さだ)の助けをこっそりと借りたりもした。
それでも、亡き備後守様の威勢を損なわないだけの準備を整えることができたと、権六は、自負していた。この苦労もあと少し。葬儀が、無事、終わるまでのことだ。
そんなところへ、
「お客人が見えられました」
と、声を掛けられた。
鈴を転がすような声の主は、不吹蔵人であった。
勘十郎の小姓で、まだ十四。髷も結わずに長い髪を後ろで束ね、女子が男を装っているようにしか見えなかった。普段なら牛若丸のごとき色鮮やかな水干に身を包んでいるのだが、この日はさすがに控え目な格好をしている。目から下を布で覆っているのは、いつものことである。
客人なら久右衛門にでも言えばよかろうと思ったが、ささこちらへと促されて、仕方なく席を立った。隣の大学が物凄い形相で、こちらを睨んでいた。
本堂の外へ出てくると、越前から来たという者たちがいた。代表者は、二十代後半と思われる武士で、朝倉孫八郎景鏡と名乗った。四人の従者が付いてきている。
織田家は、越前や朝倉と浅からぬ因縁があった。織田家の祖をたどれば越前織田荘を発祥とし、その地にある劔神社の神官をしていたといわれている。斯波氏が越前の守護であった時には朝倉氏と共に仕え、斯波氏が尾張の守護を兼ねるに当たり、尾張守護代として移ってきたのである。
その後、朝倉氏は応仁の乱の混乱に乗じて、斯波氏から越前守護の座を奪い取った。当然、斯波・織田両家との仲も悪化したのだが、信秀は、朝倉氏と共同で美濃へ侵攻するなど、悪い関係ではなかった。
「我が朝倉家と備後守殿は共に兵を出すまでとなった間柄。それゆえ備後守殿が長く患っておられたことでご心配申し上げていたところ、此度、ご他界をお聞きいたし、疎略があってはならじと、宗滴様より太守様にご進言あって、それがしが遣わされることとなった次第」
朝倉景鏡は、今の当主義景の従兄だという。
「これはわざわざのお越し、かたじけのうござる」
当主の近親者とはなかなかの大物ではないかと、権六が感服していると、不吹に袖を引かれ、少し離れたところへ連れて行かれて耳打ちをされた。

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