第20回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 少女たちの秒針

『少女たちの秒針』

雨地草太郎(あまち・そうたろう)30歳
1991年、長野県生まれ。観光施設職員。


第一章 病院

 遠坂風音(とおさかかざね)が病院に運び込まれたのは、一九九八年の七月十三日、月曜日のことだった。
「風音、大丈夫?」
「うん……」
 母に肩を借りて岸倉(きしくら)医院の玄関を抜ける。風音の顔は真っ赤で、だらだらと汗をかいていた。ただならぬ雰囲気に、受付の女性が気づいた。
「あの、この子が朝から具合を悪くしていて……」
「すぐに車椅子を用意しますね。しばらくお待ちください」
 風音は車椅子に座って処置の時間を待った。
 意識が朦朧としていた。今すぐ横になりたい。
 昨日から少し調子は悪かった。また持病の喘息が起きるのかもしれない。そんな予感があった。
 今日の喘息は特別ひどい。
 呼吸がまともに続かず、だんだん周りの声も遠ざかっていく。体中が熱くなったり寒くなったりする。自分の体がめちゃくちゃになっているのを感じていた。
 来年はいよいよノストラダムスの予言の年だね、なんて高校の友達と話していたところだった。
 ……死ぬ、かも。
 風音はぼんやりと思った。
 予言通り人類が滅亡する。その前に、自分は一足先にあの世へ行くのだろうか。
 いやだなあ……。
 にじむ視界。かすれる音。
 その中で、風音は世界の崩れていく瞬間を思い描いていた。

     †

 耳が聞こえなくなった。
 中耳炎を併発したらしく、投薬治療が効くまでは何も聞こえない状態が続くだろう、と担当医の岸倉先生が筆談で教えてくれた。
 風音は五〇五号室に入院となった。
 点滴である程度回復したようだが、まだ予断を許さない。
 翌朝、風音はじっと天井を見つめていた。
 二人部屋の、廊下側のベッド。昨日から酸素マスクをつけっぱなしだ。
 よく晴れた日だった。
 窓が開いているようで、ときおり風が吹き込んでくる。扇風機もない部屋だ。その風がたまらなく心地いい。
 時々、隣のカーテンが揺れた。向こうの人物が動いているのだ。
 午後になって酸素マスクが外れると、母が家に帰ってパジャマを持ってくると言った。
 しばらく一人になって、風音はまたぼんやりした。
 このまま自分はどうなるのだろう。
 来年の三月には高校を卒業する。三年間通った女子校。異性との出会いはさっぱりなかったけれど、同性の友達はたくさんできた。
 明るい性格の子からクールな子まで、いろいろな女子と仲良くなれたと思っている。
 クラスにはいくつかのグループがあったが、どこの集団に入ってもかわいがられるのが風音だった。
 周りに恵まれたから、三年間学校に通えた。病弱な体でいじめを受けていたら、耐えられなかっただろう。
 だからこそ、風音は今後を心配していた。
 一応、進学しようと考えている。地元長野にとどまるか、上京するか。あるいは別の地方に行くか。それすらも曖昧だ。
 東京に出て、やっていけるだろうか。こんな体で一人暮らしができるだろうか。
 ため息をついた時、カーテンが滑った。
「やあやあ」
 ――と、相手が言ったように見えた。
 茶髪をポニーテールにした女子と、黒の長髪をストレートにした女子が立っていた。
 ポニーテールは早瀬凛子(はやせりんこ)。
 黒髪の少女は駒崎葵(こまさきあおい)。
 どちらも風音のクラスメイトだった。
 風音が通う、山王(さんのう)女学院の制服。薄桃色のブラウスに、黒のプリーツスカート。赤いリボン。凛子は第一ボタンを外し、腕にはカラフルな輪ゴムを三つもつけていた。葵は崩れなくしっかり着こなしている。
 凛子が早口で何か言うが、口の動きだけでは掴みきれない。
「あ、あのさ」
 風音が言うと、凛子はピタリと止まった。
「実は、喘息のせいで耳が聞こえなくなっちゃったの」
「ほう」
 そのくらいは理解できた。凛子は大きく口を開ける。
「筆談なら、いける?」
 風音はうなずいた。
 凛子はスクールバッグから小さなメモ帳を取りだした。さらさらと書き込んでいく。彼女は目がくりくりしているので表情がわかりやすい。こんな状況も楽しんでいるように見えた。
『先生から入院したってきいたよ。大丈夫そう?』
 メモ帳が差し出された。
「なんとか大丈夫。耳も、時間が経てば治るはずだって」
『ようござんした』
 風音が笑うと、凛子もにやりとした。
『風音ちゃんがいないと教室も静かだから、早く来てね』
「うん、頑張る」
『乃愛(のあ)ちゃんとかすごいよ。風音ちゃんはノストラダムスの予言に引っ張られて倒れたとか言ってるし』
 あはは、と笑ってごまかす。
 黒原(くろはら)乃愛もクラスメイトの一人だ。オカルトが大好きで、話題の大予言についても真剣に受け止めている。
 葵が凛子のブラウスの袖を引く。ほい、と凛子はメモ帳を渡した。
『倒れているあいだ、啓示的な夢を見ましたか?』
 葵は誰に対しても敬語だ。家はお金持ちらしく、立派な教育を受けてきたのだろう。しかし本人は、黒原乃愛と同じく神秘的なものが大好きだ。言いたいことは、なんとなくわかった。
「ノストラダムスに関係する夢は見てないよ」
 葵はちょっとがっかりしたようだった。風音はそこまで本気にしていないから、期待されても困る。
 凛子が葵の肩をつついて何か言っている。病人に変なことを訊くなとか注意してくれているのかもしれない。
『まあ、命に別状がないならなにより。また学校で待ってるね』
 凛子がメモ帳を見せてよこした。
「ありがとう。もしかしたら、次に会えるのは二学期になっちゃうかもしれないけど」
『それでもいいよ。完全回復してきて!』
「そうする」
 凛子は「よろしい」とゆっくり言った。葵に何か言い、病室を出ていこうとする。葵はスクールバッグに手を入れた。
「これ、よかったら」
 渡されたのは、〈ノストラダムスの大予言特集〉という見出しのついた、オカルト系雑誌だった。
 風音は苦笑しつつ、お礼を言って受け取った。

 時間が流れていく。もうすぐ午後五時半になる。まだ母は戻ってこない。
 風音は横になって、ある人物の顔を思い浮かべていた。その人がお見舞いに来てくれるかどうか。風音にとっては重要な話だった。
 自分の呼吸が耳の中で聞こえる。いやな感覚だ。早くこんな状態から解放されたい。
 その時、カーテンが動いた。母が帰ってきたのかと思った。が、顔を出したのは同年代くらいの女の子だった。
「こんにちは」
 ――と、相手が言った。風音の耳はほとんど声を拾えないが、ゆっくり口を動かしてくれたのでわかった。
「あっ」
 相手を見て、風音は声を上げた。長い黒髪と薄い眉、唇の左下についたほくろ。見たことのある顔だった。
「小河原(おがわら)さん……?」
 そうだよ、と返事をしてくれたように見える。
 小河原詠(よみ)。
 風音の隣のクラスの女子だった。話したことはないが、よく校内ですれ違う。
「ごめんね、喘息のせいで耳が聞こえなくなっちゃってるの」
 さっき、凛子と葵にした説明をもう一度する。自分の声が頭にこもって気分が悪かった。どのくらいの声量を発しているのかもわからない。
 詠は理解しているようで、メモ帳と鉛筆をかざしてみせた。
『私のこと知ってるんだ』
 そう書かれた。
「文芸部に有望な三年生がいるって、北村先生が言ってたのを聞いたことがあるんだ。北村先生はわたしのクラスの担任ね」
 詠はうんうんとうなずく。
『推理小説を書いてます』
 おー、と風音は反応した。
『さっきクラスメイトが来てたよね? それで、となりに遠坂さんがいるってわかったからのぞきにきました』
「小河原さんも入院してるの?」
 こくっと首を縦に振る。
『風邪が重くなっちゃって。もうすぐ退院するよ』
「よかったね」
 ありがとう、と言ったように見えた。
 カーテンが揺れた。今度こそ母が帰ってきたのかと思ったが、またしても違った。現れたのは制服の女の子だった。

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