第20回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み フランダースの犬たち

『フランダースの犬たち』

五島和哉(ごしま・かずや)43歳
1978年、大阪府生まれ。2001年、東京大学教養学部卒業(ロシア・東欧専攻)。2004年、東京大学総合文化研究科修士課程修了(ロシア・東欧専攻)。2005年より会社員。モスクワ勤務、パリ勤務などを経て、現在に至る。


第一部
1
 テムズの南岸、サザーク地区。パストン家の邸宅では、このところ毎夕訪れる、貴公子の話題で持ちきりだ。身長はゆうに六フィートを超え、美しい金髪と澄んだ碧い瞳。立居振る舞いは、貴族らしい優雅(エレガンス)を失わぬ程度の野性味をはなち、ロンドン娘を浮わつかせた。石造りの台所に集ったメイドたちは、朝食の準備もそっちのけで、「王子さま」の話題に花を咲かせる。
 ここで便宜上、パストン邸と呼んだ建物は、もともと、百年戦争の英雄、ファルストフ卿の持ち家である。昨年、ジョン・パストンの所有に名義が書き換えられた。故人の代理人に過ぎなかったパストンが、死の床の老人に遺言書を書かせ、大邸宅を相続したというエピソードは、いささか醜悪な匂いを放つが、昨今のイングランドでは、それほどめずらしい話でもない。
計算高いパストンが、空き家になっていた邸宅を、ヨーク公の妻子に貸し与えたのは、今年の九月のことだ。
言うまでもなくヨーク公とは、国王ヘンリー六世に弓引く叛逆者、ヨーク公リチャードのことである。
昨年の戦いで、ランカスター王家に敗れて以来、公はアイルランドに亡命を余儀なくされていた。セシリー夫人と、おさない子供たちは、ロンドンで捕らえられ、以来、ランカスターの監視下に置かれている。だが、今年の七月になって、状況はまた大きく変わった。ウォリック伯率いるヨーク軍が大陸から上陸。ノーザンプトンで国王ヘンリーを捕虜にしたのだ。
のちに薔薇戦争と呼ばれる内戦の、焦点となる場所に、パストンの邸宅はあった。囚われものの母子にパストンが家を貸すのも、次なる権力者に恩を売っておこう、という下心があってのことなのだ。
 件の貴公子は、ヨーク公の長男、マーチ伯エドワードである。十八歳の若き伯爵は、先のノーザンプトンの戦いでも、軍の先頭に立ち、大いに武功をあげていた。騎士としての成功に加え、母と兄弟の身を案じ、毎日訪ねてくる優しさ。使用人たちも、エドワードにはぞっこんである。

「イザベラ、シーツの替えを持って来てちょうだい」
 噂話に興じていたイザベラは、公爵夫人の声を聞いて、あわてて洗濯室へ走る。十四歳のマーガレットは別としても、十一歳のジョージ、八歳のリチャードと、この家に預けられているヨーク公の子供たちはみな、やんちゃざかりの年頃だ。いたずらをして、シーツや服を汚すことはめずらしくない。
 けれども、朝まだ早いこの時間に呼ばれるのだ。リチャードがまた、おねしょをしたのに違いない。
「おばさん、シーツ、いただきますね」
 洗濯室にとびこんだイザベラは、干してあるシーツを手早く取りこむと、洗濯係の老女に声をかけた。すっかり歯のぬけた老女は、ふがふがと声にならない声で、「またリチャード様かい」と言ったようだったが、イザベラは聴こえないふりをして、二階の子供部屋をさし、階段を駆けあがる。そして、ドアの前で急停止し、ノックをした。
「奥様、イザベラでございます。シーツを持ってまいりました」
「ああ、入って頂戴。あいているから」
 ドアを開ける。寝間着姿のセシリー夫人と、泣きべそをかくリチャードの姿が見えた。想像した通りのことが起こっているのだろう。
「ごめんなさいね。お前たちにも、朝の仕事があるでしょうに」
 セシリーがイザベラの手からシーツを受け取ろうとする。うっかりするとこの公爵夫人は、使用人が手を出す前に、自分で家事をやってしまう。イザベラはあわてて、「わたしがいたしますから」と断りを入れ、てきぱきとシーツの交換を済ませた。次に、窓を開けて空気の交換を、と思ったが、公爵夫人がいち早く作業を済ませており、朝の清々しい外気が既に、室内に流れこんでいた。
「ロンドンの秋にはめずらしく、よいお天気ね」
「はい、本当でございます」
 四〇代も半ばを過ぎた筈なのに、深呼吸をする公爵夫人の横顔は、うっとりするほど美しい。
「イザベラ、お前がいてくれて、本当にたすかるわ」
「滅相もございません」
「お前がいてくれれば、大丈夫かしら?」
 セシリーは遠い目をする。アイルランドから帰国したヨーク公は、ヘレフォード城に妻を呼びよせている。しかし、公爵夫人が心配しているのは、リチャードのことだ。
 ヨーク公が敗れてから、セシリーと年少の子供たちは、彼女の姉、バッキンガム公爵夫人の庇護下に入った。しかし、「庇護」とは名ばかりで、叛逆者一家への風当たりは厳しい。世間では、ランカスターとヨークの調停者のように思われていたバッキンガム公も、実際のところは、ただの短気な因業爺いで、ちょっとしたことでセシリーや子供たちに罵声を浴びせるのだった。
 とくに、どこか陰気なところがあるリチャードが気に食わないらしく、事あるごとに折檻しようとした。セシリーは必死になってリチャードをかばいつづけ、あるときなど、身を挺して我が子を守ろうとした彼女の顔を、老公爵は鞭で傷つけてしまった。さすがのバッキンガム公も、まずいと思ったのか、暴力を振るうことこそなくなったが、言葉の鞭をあびせることは止めなかった。
<お前など、生まれてこなければよかったのだ>
 リチャードは生まれつき脊椎湾曲症の気味があり、大きくなるにつれてそれが目立ちだした。老公爵はかれを「背曲り男(クルックバック)」と呼び、お前など成長しても一人前の騎士にはなれん、馬にも乗れんし、鎧もあわん。飯を食わせるだけ無駄だ、死ね、死ね、一刻も早く消えてなくなれ、とセシリーの目を奪っては、おさない子供を罵倒しつづけた。
 リチャードの夜尿症がはじまったのは、ヨーク派の反撃が本格化し、応戦のため、バッキンガム公が館を留守にするようになってからだ。老公爵の横暴に、気がとがめていたらしいバッキンガム公夫人も、夫が危険な戦場に向かい、ヨーク派の攻勢に苦しめられているとなると、癇癪をおこすことが多くなり、セシリーとの言い争いが絶えなくなった。おねしょも、もちろん諍いの種になった。バッキンガム公のもとで過ごした一年は、他の兄弟にとってもつらい日々だったが、リチャードにはとりわけ大きな傷を残しただろう。
 バッキンガム邸から行動を共にしてきたイザベラには、セシリーの気持ちがよく分かる。
おねしょをして、泣きべそをかいているリチャードを見ると、むしろ救われたような気がするのだろう。あのころのリチャードは、涙を流すすべも忘れてしまったようであったから。
「今日、エドワードに返事をしないといけないのよ。あの子は、『弟たちは俺にまかせて、すぐに親父のところに行ってくれ』って言うんだけれどね」
 リチャードの頭を撫でながら、セシリーが言った。 
「左様でございましたか」
 いつもは夕方に訪ねてくるエドワードだが、今日は朝からやって来るらしい。公爵夫人と朝食を共にするのだ。

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