第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み わかなみゆらむ

『わかなみゆらむ』

響木琢(ひびき・たく)54歳
1965年生まれ。会社員。東京薬科大学卒業後、薬剤師資格取得。
龍安寺石庭の研究を個人的に20年以上続けている。



京都龍安寺石庭の作者は数々の説があるものの、確定的な証拠は未だ見つかっていない。
作中の図面による解析は、実測図を元に全て事実に基づいて行われている。

 一五〇〇年 夏 京都

 夕刻になっても、まとわりつくような蒸し暑さが残っていた。
 質素な小袖を着た町人風情の男二人が長い影を引きずりながら富小路を歩いていく。ひぐらしの鳴き声がする中、不機嫌そうに愚痴めいた話をしている。
 細い路地に入った途端、二人は歩みを止めた。道を遮るように肩衣を着て打刀を腰に差した侍が立っている。侍は旧知の友に出会ったかのように微笑みながらするすると近づいてきた。男二人は顔を見合わせ、お互い自分の知り合いではないと首を振った。
「どちらさんですか」
 そう言い終わる前に侍は恐ろしいほどの速さで抜刀し、夕焼けを反射した刀身が真横に弧を描いた。首から血飛沫が吹き上がり、皮一枚となった頭がぐらりと傾いだ。
 もう一人が悲鳴を上げる隙も与えず、侍は滑るように前に出て銀色の魚のような刃で真っ直ぐに腹を貫いた。そして抜いた刀で袈裟懸けに斬りつけた。血まみれの男は眼を見開いたまま、首を切られて転がるむくろの上に折り重なるように崩れ落ちた。
 侍は片ひざをつき、刀に切り捨てた男の袂を巻きつけて血糊をぬぐうと、静かに鞘に収めて足早に去っていった。
 首を切られた男の傍らに若菜色の巾着が転がっている。

 冷たい満月が見える。
 午前二時の東京都心は窓明かりが減り、高層ビルを縁取る赤いライトの明滅が目立つ。豊洲のタワーマンション34階のベランダには時折強い風が吹き込んでくる。
「そろそろあきらめはつきましたか?」
 銀髪で整えられた口髭を生やした初老の紳士は、透明な樹脂パネルがはめ込まれたベランダ柵の外側につかまって震える髪の薄い中年男を見据えて静かな口調で言った。
「やっぱり無理です、許してください。二度と邪魔しませんから」
 血の気の引いた顔で首を横に振る。七月も近い穏やかな夜だと言うのに凍死しそうなほど全身を震わせている。小太りの中年男は柵の外に僅かに張り出しているコンクリートにつま先を乗せ、ベランダ柵の手すりをきつく握っている。
「あなたが自殺しないと、帰省中の奥様と坊ちゃんまで殺されてしまいますよ」
「やめてください、何でも言うことを聞きますから……」
 また風が吹いて髪が逆立ち、中年男は柵にしがみついた。
「ご家族に手を出さない代わりにあなたが自殺すると言うから、私はこうして待っているのです。もう遺書まで書いているのだからおとなしく飛び降りなさい」
 仕立ての良さそうなスーツを着た銀髪紳士はにべもなく答えた。震える男は恐る恐る足元に目をやった。遥か下を小虫ほどの車がライトを点けて動いていくのが見える。足がすくみ、柵を腋の下に挟み込んだ。
「困りましたねえ、かれこれ15分近く経ちます。私も忙しいのですよ」
 綺麗に七三に分けられた銀髪を黒い革手袋の指先で軽く撫でつけてから薄い腕時計に目をやった。そして駄々をこねる子供のような姿で柵にへばりつく男を見てため息をついた。
「わかりました。では、こうしましょう。度胸試しをしてクリアできれば助けてあげましょう。両手を柵から離して頭の上に上げて20秒我慢できればクリアです」
 それを聞いた薄毛の男は目を見開いた。
「本当ですか、本当にそれで助けてくれるんですか」
「私は嘘と裏切りを軽蔑します。どうしますか、やるのかやらないのか決めてください」
「やる、やります。その代わり絶対助けてください。約束ですよ」
 中年男が哀願するように言うと、口髭の男は微かな笑みを浮かべて頷いた。それを確認すると中年男は震える両手を少しずつ緩めて手すりを離し、腋で柵を挟み込むような格好になった。
「それでは駄目です。両手を頭の上に乗せてから20秒です」
「本当にそれをやったら助けてくれますね」
「くどい話は嫌いです」
 紳士は鋭い目で薄毛の男を見た。小太りの男はとてつもなく重い腕を持ち上げるかのように、ゆっくり震えながら頭の上に両手を乗せた。
「上半身が柵にもたれかかり過ぎです。勇気を見せるならもっと背筋を伸ばしなさい」
 中年男は目を見開き、歯を食いしばりながら必死に体を伸ばした。
「いいでしょう、では数えます。1、2、3、4……」
「5」と数えた瞬間、銀髪紳士は全身を強ばらせている薄毛男の額をトンと小突いた。体勢を後ろに崩した男は「あっ」と声を上げて慌てて柵を掴もうとしたが、手すりに指先が僅かにかすっただけでそのまま後ろ向きに落ちて行った。
 数秒後にドーンという大きな音が駆け上がってきた。銀髪紳士は下を見ることなく、黒い革手袋で大きなサッシを開けて部屋の中に入った。
「約束通り死ぬのを手助けしてあげましたよ」
 顔色も変えずにそう言うと、ソファ前のガラスのローテーブルに置かれた遺書を真っすぐに整えた。そして玄関を出ると入る時にも使った合鍵で鍵を閉め、ゆったりとした足取りでエレベーターホールへと向かった。

ページ: 1 2 3