第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み セブンアイランド

 翌日、さっそく人事課の人間に呼ばれ、小笠原支庁へ異動するにあたって説明を受けることになった。
「ほかに何か訊きたいことあります?」人事課の三十歳くらいの若い男は手元の資料を読むだけで、こちら側の義理は果たしたと言わんばかりの満足そうな笑みを見せてきた。説明によると、小笠原支庁に所属している間は職員寮とは名ばかりのただのアパートで暮らすことになるらしい。こんな事務的な説明だけで不安を解消できるはずはなかった。
「寮には家電も家具も備えつけって書いてありますけど、今使っている物は持って行けないんですか?」
「ええと、可能ではありますが、あまりオススメしませんよ? 送料が馬鹿になりませんから、持って行く物は自分で運べる物だけにしておいたほうがいいです。実際、身一つで行っても問題は無いように用意されていますから」
「身一つで?」
「そうです。都会で汚れてしまった物とおさらばするんです。帰ってくるときには身も心も綺麗になっていると思いますよ」
 人事課の人間は嬉々とした顔で答えた。この人にとっては所詮他人事でしかないのだと理解して、これ以上何か訊いても無駄だと悟った。

 それからの一週間は慌ただしかった。急いで引き継ぎをし、小笠原行きの準備にも取りかからないといけなかった。
 狭いワンルームマンションでの一人暮らしは、元々荷物は少なめだったかもしれない。それでも泣く泣く処分した物は多かった。
 結局は、本や服など最低限のものだけ実家に送りつけ、残ったのはリュックが一つだけだった。

 *

 午前十時。定刻どおり船は出航した。デッキから下を覗くと、港からこの船を見送ってくる人々の群れが視界に入ってきた。それに対し、僕は一人。ただ一人でこの光景を他人事のように見ていた。自分が向かっている場所が遥か南の島であることも、これから何年過ごすか分からない離島での生活も、まるっきり実感が湧いて来ない。
 強く吹き付ける風は、頬をべとつかせて不快でしかなく、届いてくるたくさんのエールもはっきり言って耳障りだった。だったらこの場をさっさと離れてしまえばいいものの、どこかで期待しているのだ。僕を見送る人がいることを。そんな知り合いはいないと分かっているからこそ、ますます冷めた気持ちになってくる。
 自分自身を分析していると、うんざりしてくるのはいつものことだ。なんで今さら誰かの見送りを期待しているんだろう。自分から他人を遠ざけておいて、でも自分が寂しいときにだけ都合よく他人に期待する。
 こちらに向けられている声援が次第に遠ざかっていく中、それでも船と港を飛び交う声は続いている。
 もう逃げられない。そんな言葉が頭に浮かび、憂鬱な気分がさらに増した。

 竹芝の客船ターミナルを出たおがさわら丸は、レインボーブリッジをくぐり、波の穏やかな東京湾を進んでいた。いつの間にか東京タワーやスカイツリーが微かに見えるくらいになっていて、船の意外な速さに驚く。だが、この速さですら丸一日以上かかる距離だ。正確には二十五時間半。距離は東京から約九百八十四キロメートル。想像できる距離を遥かに超えてしまうその遠さに、少し頭が痛くなった。
 周りの乗客たちを見渡してみると、出港時に比べると遥かに少なく、柵いっぱいに埋まっていた光景は遠い昔のように思える。
 まだ残っている者たちは海を背に写真を撮るのに熱心だった。小笠原は遊びで行くにはいいところなのだろう。
 僕も一人じゃなかったら、こんなふうにはしゃぐこともあっただろうか――
 そう考えている自分がおかしくなった。旅行に行くような友達なんていないくせに。
 だが、一人でいる乗客もそれなりにいるみたいだった。おそらく小笠原の島民だろう。周りの景色に驚きもせず、ただ単に、風に当たりに来たような雰囲気だ。
 心細さを感じてしまっている自分にまたもや嫌気が差すが、話す相手さえいないから誰にも悟られる心配はない。
 腕時計を見る。あと二十五時間も残っていた。何もすることがないせいで、考える時間だけが膨大にある。
 早くも持て余してしまったこの時間をどうするべきか。何かしていないと、余計なことばかり考えてしまうし、有意義に過ごす案も今のところない。そんなことを考えていたときだった。
「すみません」
 声に驚き振り返ると、そこにいたのは息を荒くした女性だった。僕より少し年上に見えるが、それほど変わらない気がする。
「は、はい」僕は女性に正対し、返事をした。随分喋っていなかったせいで、声が裏返ってしまったことに恥ずかしさを感じた。
「これぐらいの男の子、見ませんでしたか」
 肩で呼吸をしているその人は、自分の腰くらいの高さに手をかざした。女性の慌てようから察するに、自分の子供が迷子になったんだろう。
「何人か子供は見ましたよ。特徴を言ってもらえれば」
「ちょっと目を離した隙に、どっかに行っちゃったんです。出航したときはいたから、船にいるのは間違いないんだけど」
 僕の質問が耳に入っていないのか、女性は唾が飛んできそうな勢いで喋ってきた。
「早く見つけないと。危険な物も船には置いてあるでしょうしね」
「そうなんですよ! ああっ、もう! 首輪でも付けておけば良かった」と女性は憤慨した。
 発見が遅れると、この女性の子供はますます怒られるだろう。僕にはそれほど関係のない話だが、海に落ちてしてしまう可能性も、無いわけではないか。
「少し時間をください。思い出してみますよ」
 そう言って僕は額に手を置き、目を閉じて記憶の海を辿った。竹芝で乗船待ちをしていたときに遡る。窓口で順番を待っていたときのことだ。僕の視界に入ったのはざっと五十人くらいだろうか。記憶を掘り起こすと、その中にこの女性を発見した。傍には確かに彼女の腰くらいの男の子がいた。
 次に僕は乗船してから視界に入った人間の中で、子供だけを取り出す。ペラペラとアルバムをめくるように、僕の頭に記憶された人間の顔をスキャンしていく。その作業はすぐに終わった。その男の子が一人、デッキ後部へ走り去ったところを僕の目は捉えていた。
 瞼を開けて、僕は記憶と一寸違わないデッキの先を指差す。
「あっちにお子さんが走っていくのを見かけましたけど」
「ホント? ありがとう!」
 女性はそう言って、すぐにその方向へ走っていった。しばらくして、その女性の高い声と子供の声が聞こえてきた。
 親子は僕のいるほうへ戻ってきて、「助かりました。本当にありがとうございました」と、子供の小さな頭に手をやって、礼を言うように言いつけた。子供はかなりキツく怒られたのだろう。こっちが気の毒になるくらい、気が沈んでいることが見て取れた。
「たまたま覚えてて良かったですよ」
 僕は笑顔を作って、そんな嘘を吐いた。別に嘘の範疇に入らないかもしれないが、僕は彼女に問われるまで男の子のことなんて認識していなかった。だが、僕は記憶を遡って見つけ出すことができる。それが一瞬だけしか視界に入っていなかったとしても、僕が認識すらしていなくても、僕は全ての記憶を覚えている。
 昔からそういう体質だから、こういう使い方をするのは珍しくなかった。多少疲れるといえば疲れる。それだけだ。
 去っていく彼女たちに手を振り返しながら、こういうふうに感謝されることばかりであればいいのになと思う。――それでも、消せない記憶は相変わらず僕の心を蝕んでいくのだ。
 そろそろ中に戻るか。
 海を背中に、ガソリンの匂いが充満していそうな船内へ降りていく。暗い海底へ沈んでいくような気分になった。

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