第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 赦しのサクラメント

『赦しのサクラメント』

阿部考二(あべ・こうじ)61歳
1959年生まれ。
東京大学卒。会社役員。


――交信記録――

JA7895:今のところ、視界良好です。
管制塔:高度1300ft、速度130ktの状態を保て。
JA7895:アファーム。
管制塔:西から低気圧が近づいている。
JA7895:明日は雪でしょうか。
管制塔:気象庁の予報では明け方から降りはじめるようだ。
JA7895:そうですか。では、着陸準備に入ります。
管制塔:了解。いつもの手順でいくぞ。
JA7895:アファーム。
管制塔:JA7895、着陸準備に入れ。
JA7895:着陸準備、よし……なんですって?
管制塔:どうした?
JA7895:……落ち着いてください!
管制塔:JA7895、何があった!
JA7895:……もう一度、お願いします……落ち着いて、もう一度……本当ですか!
管制塔:JA7895、応答せよ。
JA7895:管制塔、管制塔。緊急事態です。搭乗員一名が意識不明。救急車の手配を願います。
管制塔:JA7895、状況を詳しく説明しろ。
JA7895:確認しますので、お待ちください……報告します。搭乗員一名が呼吸をしていません。心臓の鼓動も停止の模様。繰り返します。搭乗員が意識不明、呼吸停止。救急車の手配を願います。
管制塔:了解。救急車を手配する。パイロットは操縦に専念せよ。

 1

 若槻早苗はテレビのスクリーンを観ながら、小さくうなずいた。その調子よ、西園寺さん。キーワードは正業と副業のバランスですからね。
 西園寺は今のところ、うまくやっている。しつこいほど予行演習をした甲斐があったというものだ。
――西園寺さんが「赦しのサクラメント」を起業した、そもそものきっかけは?
 スクリーンの中で司会の片山がいった。
――レッツでは副業が解禁になっています。同僚たちが様々な事業を立ちあげるのを見て、わたしも何かやってみようかと。
――レッツ株式会社は三年前に社規を変更し副業を解禁、今年から義務化したそうですね。副業を権利としてだけではなく義務としてもとらえるあたり、ずいぶん斬新な試みといえます。
 カメラは片岡のしたり顔をアップに映した。局アナから独立したばかりのフリーアナウンサーである。妙に前のめりの姿勢が若槻には暑苦しい。
――金曜の午後、レッツの全フロアから社員は誰もいなくなるという噂は本当ですか?
――オフィスに残っていたら罰金を取られます。
 若槻は既に七回規則を破り、累計七百円を献上している。
――それはすごいなあ。
 西園寺の隣に座っている別のゲストが感嘆の声をあげた。七年前に芥川賞を受賞した現役の商社マンだ。若槻は彼の小説を読んでいないが、その顔はテレビや雑誌で何度か見かけたことがある。
――大平先生の会社では副業率はどれくらい?
 テーブルの反対側から質問が飛んだ。囲碁棋士兼弁護士の触れこみだが、囲碁を打たない若槻には本因坊といわれてもどれくらい強いのか見当もつかない。
――弊社には三万人の従業員がいます。その中で副業に就いているのは数百人に満たないでしょう。
 率にしたら一パーセントね。若槻は胸を張った。
――兼菱商事さんもいっそのこと、副業を義務化しちゃったら?
――商社マンは仕事の虫ですからね。義務化されたら、途方にくれる社員が続出ですよ。それにしても、西園寺さん。どうして懺悔ビジネスなんて思いついたんです?
――御社にも顧客対応の部署があると思いますが、わたしはレッツのお客様相談室に十年勤務しています。お客様相談室のモットーは「共感」です。お客様のご意見ご要望に共感してご対応するよう、常に心がけています。しかしわたしには共感力が強すぎるのではないか。常日ごろから感じておりました。
――なんだか、小説のテーマになりそうだ。いかがです、大平先生。
 司会者の問いかけに、物書きの商社マンは興味津々の顔でうなずいた。
――電話で苦情をうったえてきた客に共感しすぎて、自分まで会社に怒りを覚えちゃうわけね。面白いよ。兼業作家さん、書きなさいよ。
 商社マンの右隣がいった。当人は化粧品会社に勤めるかたわら、ネットオークション会社を経営している。
――レッツのサービスは世界一だと自負しています。
 そこ。そこを強調して、西園寺さん。若槻は身を乗り出した。
――それでも最新のIT技術に不慣れなお客様にとっては、わたしどもの説明が不充分な場合もございます。そんなお客様のご不満やご立腹に寄り添う中で、自分自身の過剰な共感力をもてあますようになりました。
――共感力を別の方面で活かしてみよう、と思い立ったわけですか。
――大平先生のご推察のとおりでございます。副業が解禁になった機会に、自分を見つめ直してみました。ありあまる共感力を活かす道が、ふと閃いたのです。
――閃きがあなたに「赦しのサクラメント」の起業をさせました。なるほど。患者から心の苦しみを聞き治療を施すのか。でもねえ。そうなら、精神科医の仕事と変わらないのかなあ。
 ネットオークション会社の社長がいった。日本語がときどきおかしくなる。もしかしたら帰国子女なのではないか。若槻自身も経験があった。
――患者ではありません。赦しのサクラメントではクライアントとお呼びしています。それと治療は一切行なっていないので。
――治療もしないのに、どうしてお金をいただけるの?
――むしろ、キリスト教の「懺悔」に近いんじゃないかな。
 芥川賞作家がいった。
――赦しのサクラメントと聞けば、キリスト教と密接な関係があるやに想像するのは当然でしょう。
 それまで黙っていた大学教授が割りこんだ。もう一つの肩書はスタートアップ企業の社外取締役だ。西園寺と向かい合う席に座っている。
――うちは宗教法人ではありません。株式会社の形態をとっています。
――キリスト教とは無関係だと?
――西洋の宗教には「懺悔」という風習があると聞きました。苦しみや怒り、悩みや不安をさらけ出すことで心の平安を得るのが懺悔なら、わたしの目指すものと一致します。社名に使わせていただいた次第です。
――それって、商標の侵害じゃございません?
――サクラメントは一般用語になってますよ。クリスマスやハロウィンと同じように。宇野社長も若いころ、バレンタインデーのチョコレートを男性にプレゼントしたご経験がおありでしょう。その際、キリスト教会に商標使用料を支払いました?
 囲碁棋士が弁護士の顔を出した。うまいこというわね。若槻は感心する。ネットオークションの女社長が渋い顔を見せたのは、「若いころ」というタームのせいだわ。自分はまだ充分に若い、と信じている顔よ。

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