第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 三つ前の彼

 怒りのままに執務室に戻り、貴重品だけをトートバッグに詰め込んで、事務所を飛び出した。
 誰も追ってはこないのに、なぜか早足になる。
 五百メートルほど進んだところで息が上がってきて、歩道沿いにあるカフェに入った。
 なんだかとても、惨めな気分だった。
 ボーナス額が少なかっただけで仕事を辞めるなんて、狂気の沙汰だと思われるかもしれない。
 幼いと言ってしまえばそれまでだけど、それだけでは言い尽くせない何かが、自分の中にわだかまっているのを知っていた。しかし自分ではどうすることもできない。
 私だって、もっと「普通」になれたら楽だった。
 いつだって、どうしようもなく、腹の底から湧き上がる衝動に突き動かされている。
 そんな気持ちが分かる人、いるだろうか。
 どうしてみんな、嘘をつくのだろう。
 誰だって、お金が欲しいに決まっている。欲しくても手に入らないから、いらないってことにしているのだろうか?
 例えば、目の前に五百万円があって、「いるか? いらないか?」って訊いたら、みんな「欲しい」って言うでしょう。
 欲しいなら、手を伸ばさなくちゃ。
 どれだけ貪欲に手を伸ばすかにおいて、個人差があって、私はかなり貪欲なほうだというのは自覚している。
 でも、それの何が悪いというのだ。
 ピアノを弾きたい人が思いっきりピアノを弾く。絵を描きたい人が絵を描く。それと同じで、私はお金が欲しいから、お金に手を伸ばしているだけだ。
 欲しいものを手に入れる。それをずっと繰り返していくことで、自分が抱えたわだかまりから、いつか解放されるような気がしていた。
 そのとき、スマートフォンが震えた。
 手に取って見ると、津々井先生からメールが入っている。
『疲れがたまっていたのかも知れませんね。しばらくお休みということにしておきますから、元気になったら戻ってきてください。さっきも、じゅうぶん元気でしたけど……(笑)』
 津々井先生のことを思い出すと、腹の底からムカつきが込み上げてきた。
 人との絆とか、思いやりとか、愛情とか、そういったものはお金で買えないから、大事にしなくちゃいけないと、心の底から思っていそうな、そんな顔。
 しかしその仮面の下で、実はぞっとするほど腹黒い人なのだと分かっている。そうでなくては、弁護士としてここまでの成功を収められるわけがない。
 私と津々井先生、どうせ同じ穴のムジナだ。
 津々井先生のほうが、本性を隠して、上手く立ち回っているだけである。
 腹が立つと腹が減ってきた。私は店員を呼びとめて、大盛りフライドポテトを注文した。そしてフライドポテトを完食する頃には、多少冷静な頭が戻ってきていた。
 事務所を辞めると口走ったけれども、実際問題として、これからどうしていけば良いのかアイデアがあるわけではなかった。幸い貯金も多少あるし、しばらくのんびり過ごしてもいいかもしれない。
 ハードワークで有名なうちの事務所では、定期的に人が倒れる。だが倒れても、二、三ヶ月後には、何事もなかったかのように事務所に戻ってくる。
 そもそも法律事務所と個々の弁護士は、雇用契約ではなく、業務委託契約でつながっているにすぎない。だから、有給休暇も所定勤務日数という概念もない。
 つまるところ、数ヶ月稼働しなかったからといって、文句を言われる筋合いはないのだ。働かなかったらお金が貰えないだけで、事務所も弁護士も勝ち負けなしだ。
 本当に辞めるかどうかは別として、しばらく仕事をするのはやめよう。
 そう決めてしまうと、かなり気持ちが楽になった。
 しかし働かないとすると、明日から毎日、何をして過ごせばいいだろう。
 やりたいことは色々あったはずだけど、いざ時間ができてみると、何から手をつけて良いのか見当がつかない。
「はあ――」
 冷め切ったカフェラテのボウルを握りしめながら、私はため息をついた。
 なんだか急に寂しさがこみ上げてきて、スマートフォンのアドレス帳を見返し始めた。
 呼び出せる人は誰かいるだろうか。
 私には女友達が一人もいない。
 みんなで横一列に並ぶなんて、私の一番嫌なことだから、それを強要する女という生き物が苦手なのである。
 男友達なら、少なからずいるけれど――。
 アドレス帳を見ながら男達の顔を思い浮かべてみたものの、みんなイモみたいな顔の奴らで、パッとしなかった。
 誰か、誰でも良いけど、うんとイケメンに癒やされたい。
 そう思ったとき、ふと、森川栄治(えいじ)のことを思い出した。
 栄治は大学の先輩で、大学在学中に三ヶ月ほど付き合って別れた男だ。
 信夫の前の、その前の、もうひとつ前だから、三つ前の彼ということになるだろうか。
 なぜ別れたのか、記憶は曖昧だけど、たしか栄治の浮気が原因だったように思う。それで私が鬼のように怒って、すぐに別れた――ような気がする。
 自分が傷つくような出来事は早めに忘れられるという、都合の良い脳みそを、私は持っていた。
 栄治は勉強も出来ない、運動も出来ないダメ男だったけれど、とにかく顔は良かった。うりざね顔でつるりとしていて、品も良く、見栄えがした。声は低くてよく響き、身長も高かった。
 私は結局、栄治の見た目が好きだったように思う。
 これはちょうどいい。栄治とどうなっても、後腐れも何もないのだし。
 そう思って、私は栄治のメールアドレスに、
『久しぶり! 元気?』
 とメールを送った。
 それからぼんやりと、一時間ほど待ってみたけれど、一向に返信は来なかった。
 メールアドレスが変わっている可能性もある。しかし、送信失敗メールが来るわけではないから、きちんとメールは届いているはずだ。
 しかしそもそも、七、八年前にちょっとだけ付き合っていた人から連絡が来たからといって、返信しようとは思わないだろう。逆に栄治から連絡が来たとしても、いつもの私なら返信しなかっただろう。
 ふと外を見ると、すっかり暗くなっている。せっかく働かなくて良いんだから、さっさと家に帰って、風呂に入り、寝てしまうことにした。

つづく

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