第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 三つ前の彼

 翌日の午後四時、私は事務所の面談室の前で、胸を高鳴らせていた。
 二月一日、月曜日。年に一度の人事面談だ。
 うちの事務所では、ボーナスは年に一度、二月中旬に支払われる。人事面談でこの一年間の働きぶりのフィードバックをもらうと同時に、ボーナス額を伝えられるのが恒例となっている。
 私は意気揚々と面談室に入ったが、すでに座っている上長ふたりの顔色が冴えないのを見て、胸の内に不安が広がった。
 私が何かしただろうか。
 しかし、こと仕事に関しては、人一倍、真面目にしっかりと、そしてエネルギッシュに働いてきた手応えがある。
「どうぞ、青山先生、座ってください」
 ふたりの男のうち若いほう、四十手前の山本先生が口を開いた。
 私は黙って、上長たちの向かいの席に座る。
「青山先生の働きぶりは、弁護士一同、感心しているし、クライアントからも頼りになると評判ですから、この調子で頑張ってください」
 褒めているはずなのに、どこか言い訳じみていて、申し訳なさそうな口調だ。
 私は不思議に思いながら、山本先生のポマードで塗り固められた頭を見ていた。
「えっと、それでね。今年のボーナス額は二百五十万円となっています」
 に、二百五十万円――?
 山本先生の言葉が、私の頭の中で反響する。
「え……?」という言葉が口から漏れた。
 去年は四百万円くらいだった。
 今年は去年よりも一層熱心に働いたというのに。
 私はとっさに眉を少し持ち上げて、いかにもショックを受けたという表情をつくった。
 年上の男性の相手をするのは得意だった。
「どうしてですか? 私に何か、問題がありましたか?」
 山本先生は、誤魔化すように首を小さく横に振った。
「いやいや、そんな……。君はよくやってくれているよ。同期入所の弁護士と比べても、二人分、三人分、働いてくれている」
「それじゃ、どうして……?」
 山本先生の隣に座っていた、六十手前の津々井先生が、優しい口調で言った。
「青山先生を見ていると、僕の若い頃を思い出すよ」
 津々井先生は事務所の創設者だ。たった一人から始めて、日本最大の法律事務所にまで育て上げた。だからこそ、事務所名に自分の名前を並べている。
 薄くなった髪や、卵型の輪郭、丸くてつぶらな目、頬に刻まれた餃子のひだみたいな皺。津々井先生を構成するもの全てが柔和な印象を宿している。
 私はすぐに口元を両手で覆った。
「そんな……津々井先生の若い頃だなんて。光栄です」
 津々井先生は、白髪交じりの薄い頭を掻きながら苦笑した。
「いやいや、そういうのはいいよ。僕もたいがい意地悪だから、君のことはよく分かる」
 私は、踊りの音楽を急に止められたような気分になって、ばつの悪さで口を一文字に結んだ。
「弁護士としては一種の才能なのかもしれないけれど、青山先生はよく切れるナイフみたいな状態で歩き回っているから、その刃をね、事務所の中では鞘に収めてもらって、対外的に大いに発揮してもらえたらと考えています」
 私は津々井先生をまっすぐ見据えて、
「もう少し具体的に指摘してください」
 と言い返した。
「一人で働くならそれでいいんだ。けれども、後輩が出来て、チームをまとめながら働いていくとなると、そのギラギラした感じが怖いっていう人もいるんだな」
 津々井先生は、自分で言っておいて何か愉快だったらしく、
「ほっほっほ……」
 と笑うと、
「ま、目減りした分は長い目でみて勉強料だと思って」
 と言った。
 こうやって津々井先生は、私の地雷のスイッチを踏み抜いたのである。
 次の瞬間、私は叫んでいた。
「勉強料って、なんですか!」
 目の前にある机を思い切り叩いた。
「私はお金が欲しくて働いているんです。働いた対価として、事務所からお金をもらう。それを勉強だとか何とか言って、天引きされたら、たまったもんじゃない!」
 山本先生は一瞬たじろいだが、津々井先生は眉一つ動かさなかった。
 それがまた腹立たしい。
 私はこんなに怒っている。事務所は、津々井先生は、それが分からないのか?
「お金がもらえないなら、働きたくありません。こんな事務所、辞めてやる」
 私は立ち上がった。
「まあ、まあ、そうカッカせず……」
 と山本先生が右手で制したが、私は、
「二百五十万ぽっちとはいえ、ボーナスはきっちり振り込んでくださいね」
 と言い捨てて、面談室を後にした。

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