第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 三つ前の彼

『三つ前の彼』

新川帆立(しんかわ・ほたて)29歳
1991年、米国テキサス州生まれ。宮崎県育ち。
東京大学法学部を卒業後、プロ雀士を経て、現在弁護士。


 第一章 即物的(ザッハリッヒ)な世界線

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 差し出された指輪を見て、私は思わず天をあおいだ。
 信夫(のぶお)と私は、東京ステーションホテルのフレンチレストランで、フルコースのデザートを食べ終わったところだった。
「これはどういうつもり?」
 私は尋ねた。レストランのスタッフが花束を用意しているのも見逃していなかった。
 信夫は、私の驚いた様子を見て、満足そうに微笑む。
「だから、僕と結婚してほし――」
「そうじゃなくて」
 私はガツンと刃を入れるように、信夫を遮った。
「この指輪はどういうつもりって訊いているの?」
 ため息に似た深呼吸をひとつすると、指輪を指さした。
「この指輪、カルティエのソリテールリングよね。定番なのは分かるけど、安直すぎないかしら。それに何より、このダイヤの小ささをみてちょうだい。〇・二五カラットもないようだけど、よくもカルティエでこんなに小さいダイヤが買えたわね」
 信夫の顔から、血の気が引いていった。ホームベースのような角張った顔を上下に揺らして、私と指輪を交互に見比べている。その動きにつられて、黒縁眼鏡が信夫の大きな鼻の上をずり下がった。
「誤解しないでよ。私はあなたを責めているわけじゃないの。ただ、純粋に疑問……。どういうつもりでこの指輪を用意したのか、趣旨を教えてちょうだい」
 信夫は、数秒固まっていたが、ずれた眼鏡を元のポジションに戻すと、つぶやくような声で話し始めた。
「僕はただ、僕の気持ちを受け取ってほしいと思っただけなんだ。百合絵(ゆりえ)ちゃんがそれほど指輪にこだわりがあるとは知らなかったから」
「はあ……」
 私は息をついた。
「つまり、コレがあなたの気持ちってことね」
 睨み付けると、信夫は怯えたように身を小さくした。
「ねえ、あなた、リサーチャーなのよね。世間のカップルの、婚約指輪の相場を知らないのかしら」
 信夫は、電子機器メーカーで研究開発職をしている。知的に尊敬できると思って、これまで一年間付き合ってきたのだった。
 渉外系大手法律事務所で弁護士をしている私とは畑が違うから、互いのプライドを削り合うような喧嘩をすることが少ないのが良かった。
「も、もちろん、調べたよ」
 私の言葉で反抗心を刺激されたらしい信夫は、声を震わせながら続けた。
「大手結婚情報サイトによると、婚約指輪の平均予算は四十一万九千円だ。二十代後半に絞ってみると、平均四十二万二千円。三十代前半で四十三万二千円。僕らは二十代後半だけれども、少し色をつけて三十代前半相当を目安に用意した。だから――」
「だから何?」
 もう一度、私は信夫を睨み付けた。
「あなたの私への愛情は、世間の平均程度ってこと? そもそも私は、自分が世間の平均どおりの女だと思ったことはないし、平均が四十万円だとしたら、百二十万円の指輪が欲しいの」
 私は腕を組んで、真っ白なテーブルクロスの上に置かれた赤い箱と、その中に縮こまっている、とっても小さいダイヤを見つめた。
 輝いているけれど、所詮、小さいなりの輝きだ。
 こんなものを見ていると惨めな気持ちになってくる。
「でも私も悪かったかも。百万円以下の指輪なんて欲しくないって、前もってあなたに伝えておくべきだった……」
 あっけにとられた様子の信夫は、餌を求める魚のように、口を開け閉めしていた。
 レストランの端では、スタッフが爪先を踏み替えておどおどしながら、私たちの様子をうかがっている。
「ごめんね、百合絵ちゃん。貯金をしているつもりではいるんだけど、メーカーの若手サラリーマンでは限界があって……」
 ほとんど泣き出しそうになりながら、信夫は言った。
 その様子をみて、私はさらに腹が立ってきた。
 信夫が被害者面をしているように見えた。
 しかも、お金がないことを言い訳にして。
「何が何でも、欲しいものは欲しい。それが人間ってもんでしょ。お金がないなら、内臓でも何でも売って、お金を作ってちょうだい」
 言いながら、膝の上のナプキンをギュッと握り締めた。
「何もしてないのに、それでお金がないから無理だなんて、つまり、あなたは私のこと、何が何でも欲しいってわけじゃないのよ。その程度の愛情の男には、私の人生に割り込む資格はないの」
 私は、皺のついたナプキンを、ポンとテーブルの上に置くと、信夫を一人残して、席を立った。
「さようなら」
 男性スタッフが慌ててクロークからコートを取り出す。
 その渡し際、私の表情を見たスタッフが、ぎょっとした顔で目を見開いたのを、私は見逃さなかった。

 私はその足で、丸の内に向かった。
 大通りから一本だけ入ったところにそびえ立つ、財閥系ビルの二十八階に、私の勤務する山田川村・津々井法律事務所はある。
 ここはハードワークで有名な法律事務所で、弁護士たちは二十四時間いつでも出入りして、暇さえあれば働いてよいことになっている。
 すでに夜の十時をまわっていたが、ビルの窓からは煌々と明かりが漏れていた。
 執務室へ入っていくと、一年後輩の古川が、パソコンの前でカップラーメンを食べていた。ラグビー部で鍛えた身体を丸めて、巨大なダンゴムシみたいな格好である。
「あれっ、青山先生! 今日は記念日デートでしたよね」
 口いっぱいに麺を頬張りながら、古川が言った。
 私が首を横に振って、
「そのつもりだったんだけど。全然だめだった」
 と言うと、古川は左手で口を抑えながら、ちょっと裏返った声を出した。
「ええっ! もしかして、フラれたんすか?」
「フラれてないわよっ!」
 私が睨み付けると、古川は肩をすくめた。
「ねえ、あなた、この前婚約したわよね。彼女さんにいくらくらいの婚約指輪あげたの?」
 訊ねると、古川は首をかしげた。
「ええと……ハリー・ウィンストンの中くらいのラインだったので、二百万くらいですかね」
 私は大きく頷いた。
「そうそう。そうあるべきなのよ。一生に一人だけのパートナーをゲットするんだから、そのくらいの本気を見せてもらわなくちゃ」
 先ほどレストランであったことをかいつまんで話すと、古川は、カップラーメンを手にしたまま、呆れたような声を出した。
「あちゃ~。彼氏さん、相当傷ついていますよ。僕らは稼いでいるけど、普通のサラリーマンからすると、彼氏さんは頑張ったほうじゃないですか」
「私たちが稼いでいる、ですって?」
 私は二十八歳で年収が二千万円近くあるけれど、それで十分だと思ったことはなかった。
「世の中にはもっと金持ちが沢山いるし、私たちなんて全然だよ。私はもっと、お金が欲しい」
 古川は、ゲホゲホッと咳き込みながら、カップラーメンの汁を飲みきると、ウーロン茶を二リットル入りのペットボトルから直飲みしたうえで、口を開いた。
「いやあ、先輩ほど、欲求に正直に生きられたら、それはそれでアッパレだな。でも、お金より大事なものがあるんじゃないですか。内臓を売るとか売らないとかは、言い過ぎですよ。そんなこと彼女に言われたら怖いし……」
 私は腕を組んで、正面から古川を見た。
「でも私は、本当に欲しいものがあったら、自分の内臓を売ってでも、手に入れると思うの。古川君だって、彼女さんのことが大好きで、どうしても結婚して欲しいから二百万円の指輪をあげたんでしょう」
 古川は、太い腕を頭の後ろで組んで、よく日焼けした丸顔を私に向けた。
「俺はプロポーズ直前に浮気がバレそうになったから、仕方なく高い指輪を贈って誤魔化しただけっすよ」
 悪びれたふうもなく、古川はニカッと笑った。
 前歯の隙間に、乾燥キャベツが挟まっていた。

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