第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 死語になる

「記憶の図書館って、どんなところなんだろうね。やっぱり怖いところなのかな」
「どうなんだろう」
 やっと口に出した相槌はかすれていた。それでもよしこちゃんは私の一言で目を覚ましたように、「ごめんごめん」と笑った。
「そんなこと聞かれたらルコだって困るよね」
 死語になり、言葉の世界から追い出された言葉達は、記憶の図書館というところに行くそうだ。記憶の図書館には、生きている人間達の記憶の本が収められている。
 それを私達が知っているのは、一度記憶の図書館に行っても、またこの世界に戻ってくる言葉が極まれにいるからだ。しかし、奇跡の生還を果たした言葉は、記憶の図書館でなにがあったのか、戻ってこない言葉達はなにをしているのか、決して話そうとしない。ただ暗い顔をして、再び記憶の図書館に送り出されることに怯えるだけだ。
 隠されれば悪い想像を働かせてしまう。記憶の図書館には地獄の光景が広がっているに違いないと、言葉達は恐れている。
「よし」と立ち上がったよしこちゃんの顔は、陰になってよく見えなかった。でも彼女の不安はくっきりと、手に取るように分かった。私も同じように不安だからだ。
 それを追い払うように、私はお腹の底から声を出した。
「私、すごくいいこと思いついた」
 よしこちゃんが「え?」と私を見下ろす。私は笑顔で彼女を見上げた。
「私は記憶の図書館に行っても、絶対に戻ってくる。それで、よしこちゃんに記憶の図書館がどんなところだったか、こっそり教えてあげる。隠されるから不安だけど、きっと分かっちゃえば怖くなくなるよ」
 冗談はよしこちゃんが、「ルコ」とつぶやいた。その表情は喜びよりも、悲しさの方が強いようだった。私は笑顔のまま、力強くうなずいた。
「必ず帰ってくるって約束する。だからもう、そんな顔しないで」
「ありがとう」
 よしこちゃんは再び膝を折ると、私の頬を両手でむにっと挟んだ。そして「あんぱんまん」と言って笑う。よしこちゃんがよく仕掛けてくるいたずらだ。その手は温かく、湿っていた。
「それじゃ、私も約束する。私の方がルコより先に記憶の図書館に行くことになっても、必ず戻ってくる。それでこっそり記憶の図書館のこと教えるから」
 よしこちゃんは励ますように言ってくれたが、私は首を横に振った。
「たぶん、よしこちゃんの方が先に行くことはないよ」
 よしこちゃんがなにか言おうと口を開けた。しかし、私はそれよりも早く言葉を継いだ。
「私の木のさっぱり具合、この木と比べものにならないもん。私はきっと早々に死語になる。初めから、大した言葉じゃなかったんだよ」
 できれば一日も長く、こうしてよしこちゃんと穏やかに過ごしたい。そう言おうとしたけれど、照れくさくてできなかった。よしこちゃんは「そんなことないよ」と言いながら、小さな両手で私の手を優しく包んでくれた。
 その時、カーンと乾いた音が言葉の世界に響き渡った。
 よしこちゃんがビクリと体を震わせ、握っていた手に力を込める。私もよしこちゃんの手を握り返した。
 もう一度、カーンと音が響く。
 音の波が広がるたびに、言葉の世界はかえって静まっていくようだった。木々のざわめきも、言葉達の話し声も、すべてが止まり、緊張をはらむ。
 よしこちゃんも、私も、この世界の住人は皆、この音の意味を知っていた。
 お迎えが来たのだ。
 その時、私の前に神出鬼没が現れた。その顔は、先ほど見せていたいたずら坊主のような表情とは別人だった。痩せたまぶたを見開き、私を見つめる。
「お前さんの、庄和ルコの木が――」
 神出鬼没の話を最後まで聞く間も惜しみ、私は立ち上がった。冗談はよしこちゃんとつないでいた手がほどける。
 踏み出そうとした私の足首に、なにかが絡まった。振り返ると、よしこちゃんが両手でがっしりと私の右足をつかんでいた。その力は思いのほか強い。
「やだ、だめ。行っちゃだめ」
 見下ろした彼女の顔は、今にも泣きだしそうだ。
 もう一度、カーンと音が響いた。
「だいじょうぶ。約束は絶対守るから」
 私は彼女に精いっぱいの笑顔を向け、走りだした。すがるよしこちゃんの手が、最後の抵抗に私の足首を引っ掻く。その指先が離れた瞬間、大変なことが起きているのだと、そして私はそれを受け入れなければいけないのだと覚悟した。
 すぐに庄和ルコの木が見えてきた。よしこちゃんの木よりも一層細く弱々しい。片手で数えられるくらいしか葉がない枝は、節々が露わで痛々しかった。
 その木の下で、全身黒づくめの男が斧を振り上げていた。そして一かけらのためらいもなく根元に向かって振り下ろす。乾いた音がまた白い空に響いた。
 私はようやくたどりついた自分の木の下で、膝をつき男を見上げた。
 この木を切らないでと懇願する気はなかった。そんなことをしても無駄だということは分かっていた。
 ただこの木が倒れていくところを、自分の目で、しっかりと見ていたかった。
 男がもう一度、斧を木の幹に打ちつけた。今度はこれまでとは対照的に、くぐもった音が鳴った。ピキピキと、幹が小さな悲鳴を上げる。
 そして庄和ルコの木は、ゆっくり傾いていった。
 突然息が苦しくなった。私の周りだけ空気を抜かれたようだ。
 喘ぎながら地面に転がる私に、斧を持った男が近づいてきた。今度はその斧が私に振り下ろされるのかと恐怖する。
 しかし男は私を一瞥することもなく、斧を担いで去っていく。
 歩いて行ったのは私が今走ってきた、冗談はよしこちゃんの木がある方だった。
 今にも止まってしまいそうな思考の中で、嫌な予感が湧き上がった。
 待って、そっちには行かないで。
 私は右手を遠ざかる男の背中に伸ばした。
 必ず戻ってくると約束したのだ。記憶の図書館がどんな所か伝えると、約束したのだ。それまでよしこちゃんには、この世界にいてもらわなければ困る。
 しかしもう喉は声を通そうとはせず、私の右手は空しく宙を掻いた。
 庄和ルコの木が速度を増して倒れていく。
 その枝から葉が一枚、こぼれ落ちた。
 もう人間の世界になんて行きたくない。そう思っていたのに、私はとっさに、その葉に右手を伸ばしていた。

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