第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 死語になる

『死語になる』

小松こまち(こまつ・こまち)34歳
1985年生まれ。フリーライター。


プロローグ 
 言葉の世界に風は吹かない。それでも木々は枝を揺らし、葉を落とす。
 私は土の上に座り、細い木の幹に寄りかかっていた。前後左右を見渡せば、数えきれないほどの木が一定の間隔をもって秩序正しく並んでいる。樹齢年百年にも及びそうな、ごつごつと節のうねる大きな木も多い。この森と呼ぶにはあまりにも整然とした木々の列がどこまで続いているのか、果てがあるのか、私は知らない。
 右隣にある大きな木は、いつもしゃらしゃらとこちらにまで音が聞こえてくるほど緑の葉を降らせていた。その下に今、持ち主の姿はない。人間の世界を楽しんでいるのだろう。あれほど葉が繁り絶え間なく落ちてくれば、人間の世界へ行くことも苦労はないはずだ。
 一方、私の上に伸びる枝は寂しかった。黄色くなった弱々しい葉が枝先にまばらについているだけで、白い空が見渡せる。
 この木の持ち主である少女は、私の前に仁王立ちになり、唇を尖らせていた。
「それでね、おじさんのところに私は飛び出したの。本とかファイルなんかがびっしり並んだ狭い部屋で、若者達に囲まれてて。そうしたらその若者達が、みんなくすって笑ったんだよ」
 少女は今、おととい人間の世界に遊びに行った時の話を聞かせてくれている。彼女はそれ以来、昨日も今日も人間の世界に行けていない。だから葉が落ちてくるのを待つ間、何度も私にこの話をしていた。それでもすねる少女の話しぶりがおかしくて、私も飽きることなく耳を傾けている。
「笑ってくれたならよかったじゃない」
 私は相槌代わりにお決まりになった台詞を言う。すると少女もお決まりのように、大きく手を左右に振った。「全然よくなんかないよ」と反論する声が裏返る。
「笑ったって言ったって、いわゆる苦笑い。若者の一人が『教授、ギャグが古いですよ』っておじさんに言ったら、隣の女の子なんて『よしこちゃんって誰ですか?』って、真面目な顔で聞くんだよ」
 少女は胸の前で腕を組むと、ため息交じりにつぶやいた。
「失礼しちゃう。冗談はよしこちゃんだよ、まったく」
 この少女の名前は「冗談はよしこちゃん」。それこそ冗談のようだが、正真正銘彼女の名前だ。歳はまだ四、五歳だろうか。黒い髪を左右で結び、前髪はまっすぐに切りそろえられている。
 私は「まあまあ」と応える。そんな言葉がなんの腹の足しにもならないことは分かっていたけれど、よしこちゃんは気が済んだようで、膨らませていた頬をゆるめた。そして「落ちてこないかな」と細い枝を見上げる。            
 人間の世界には人間達が住んでいるように、言葉の世界には言葉達が住んでいる。人間に使われるすべての日本語が人格を持ち、この世界で暮らしている。
 冗談はよしこちゃんはここの住人で、「冗談はよしこちゃん」という言葉そのものだ。そういう私もここの住人。だから言葉だということになる。しかし二年前まで人間だった私にとっては、自分が言葉だという事実は未だに背中と首のあたりをもぞもぞと触られているようで落ち着かない。
 娯楽などなにもないこの世界で、多くの言葉達の楽しみは人間の世界に遊びに行くことだ。だからといって、念じればすぐに行けるものではない。言葉達は一人一本、自分の木を持っている。人間の世界で自分の言葉が使われると、枝についた葉が一枚落ちる。それをつかめば、遊びに行くことができるのだ。
 だから言葉達は、言葉同士の交流もそこそこに、自分の木の下で葉をつかむのに全力を尽くす生活を送っている。そのせいで、数えきれないほど多くの住人がいるはずなのに、この世界はいつも喧騒とは無縁の静けさに満ちていた。聞こえるのはざわめきのような葉の音と、時折それに交じる言葉達の小さな話し声だけだ。
 その時、よしこちゃんが「あっ」と短く声を発した。
 私達の頭上に伸びる冗談はよしこちゃんの木の枝から、葉が一枚、ふわりと宙に放り出された。
 よしこちゃんは小さな両手を天に伸ばす。葉は白く輝く空を背景に、右へ左へと舵を切る。よしこちゃんもその下で、小さなひとひらに操られるように蛇行した。
 葉がよしこちゃんの指先に触れる。カサと乾いた音がした。私も腰を浮かせ、「いってらっしゃい」と言いかけた。
 しかし、木の葉はよしこちゃんの指先をすり抜け、そのまま地面に落ちた。しゃがみ込んだよしこちゃんが触れるより早く、葉は跡形もなく消えてなくなる。
 よしこちゃんは小さく息を吐きだすと、私を見て力なく笑った。
「ダメだ、今日は特に不調」
 ワンピースの裾を整えて、よしこちゃんも私の隣に座った。私は彼女の頭に手を伸ばし、「大丈夫だよ」と細い髪を撫でる。こんな時はいつも、よしこちゃんを励ます気の利いた言葉が言えたらいいのにと思う。自分自身が言葉のくせに、ボキャブラリーが貧弱なことが情けない。
 その時、よしこちゃんと私の間の空気がわずかに震えた。
 こちらが身構える猶予もなく、目の前に老人が現れる。私は反射的に小さな悲鳴を上げた。老人は「いいかげん慣れろ」と尖った顎を撫でて笑う。
 老人の名前は「神出鬼没」。その名の通り、言葉の世界のあちこちに突如現れては住人達を驚かす、いたずら好きの老人だ。
「またルコは他人の木の下で油を売って。いいかげん、自分の木の下で待機していたらどうだ」
 神出鬼没は「よっこいしょういち」と、私達に向き合って胡座をかいた。私は「自分のことは棚に上げて」と神出鬼没に白い目を向ける。
 言葉達はみんな、ここよりも人間の世界の方がずっと刺激的で面白いという。でも私は人間の世界に遊びに行きたいなんて思わない。行けば自分がどんな意味の言葉なのか、思い知ることになる。もう、あんな悲しい気持ちになるのはごめんだ。
 だから自分の木の下にいる必要もない。いつもこうして冗談はよしこちゃんの木の下で、ぼんやりと時を過ごしている。
「神出鬼没だって、いっつもふらふらして全然自分の木の下にいないじゃない」
 私の反論に、神出鬼没は「それとこれとは話が別だ」と黄色い歯を見せて笑った。
「わしを誰だと思ってる。神出鬼没、どこへでも行けるんだぞ」
「だから?」と言うよしこちゃんの声は冷たい。私には笑顔を見せていたが、やはり葉を取り損ねたことで、一層機嫌が悪くなっているようだ。神出鬼没はそれに気づいているのかいないのか、誇らしげに続ける。
「つまり、わしは降ってくる葉などつかまなくても、人間の世界だってどこだって思いのまま、いつでも行くことが可能なのだ。これぞまさしく神出鬼没」
「またまた冗談はよしこちゃん。そんなすごいことができるなら、今すぐにやって見せてよ」
 よしこちゃんに詰め寄られ、神出鬼没は古い着流しをまとった肩をすくめた。
「若い頃はできていたんだがな、最近はやってないから、やるにしても準備というものが」
「あ、本当はやったことないんでしょ? 見栄張っちゃって、四字熟語のくせにちっちゃいんだから」
 今度は冗談はよしこちゃんがいひひと笑った。神出鬼没はよしこちゃんを睨んだまま、下唇を突き出している。
 老人と少女がこんな口喧嘩をしているところなど、人間の世界ではあまり見ることがないだろう。しかし、言葉の世界では年齢などあってないようなものだ。言葉はあくまで言葉。人の姿は、その言葉のイメージに合わせて被っている皮に過ぎない。私も自分が言葉になった時は、どんな外見をまとえばいいかと戸惑ったものだ。 
 その時、またひらひらと葉が一枚落ちてきた。よしこちゃんは跳び上がって走り出す。葉はよしこちゃんをからかうように舞い、神出鬼没の背後に落ちた。
 よしこちゃんは既に葉が消えた地面を見つめると、「神出鬼没が邪魔したせいだよ」と振り向いた。神出鬼没は「申し訳ない」と言いつつも、反省する素振りは一つも見せず、冗談はよしこちゃんの木を見上げた。
「それにしてもこの枝は寂しいのお。わしの木ならわんさか葉が降ってくるから、一枚落としたところでどうってことないんだが」
 先ほどよしこちゃんに言い負かされたことがよほど悔しかったのか、神出鬼没はそれだけ言い捨てると、音もなく姿を消した。反論の時間も与えられなかったよしこちゃんは、静かに私の隣に座る。その顔は暗かった。
「やっぱりそうだよね。確実に減っていってるよね、私の葉っぱ」
 よしこちゃんは恨めしそうに枝を見上げた。
 私がこの世界へ来て、最初に友達になったのがよしこちゃんだった。二人とも「しょう」で始まる言葉だから、木の場所が近かったのだ。その頃はすでに冗談はよしこちゃんの木は寂しかったが、それでも今よりはいくらかつやのある葉が降ってきていた。
「私もいつか死語になるのかな」
 よしこちゃんがつぶやく。私は彼女の横顔を見つめた。なにか言いたかったが、やはり言葉は出てこなかった。よしこちゃんは一層声を落として続ける。

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