第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み STRANGER’S RACKET

 高く澄んだ金属音が響いた。オーエンスの後ろにあるドアが開き、恰幅のよい老齢の紳士が入ってきた。雰囲気からすればアメリカ人だろう。かなりいい身なりをしている。
 どこかで見たことがある。修一郎の記憶に引っかかるものがあった。
「待たせてしまったな」
 オーエンスが立ち上がり、振り向いて客を迎えた。
「無理を言ったのはこちらだ。構わないさ」
 微笑みながら、浅黒い肌の男はオーエンスと握手を交わした。
「紹介しておこう。私の古い友人、ミスターフィル・H・アレンだ」
 修一郎に向き直りオーエンスが高らかに紹介した。どこか芝居がかった仕草にも見えた。
 ソファから修一郎が立ち上がった。フィル・アレンと紹介された老人は悠然と右手を伸ばしてきた。修一郎も右手を差し出した。年齢には見合わぬほど力強い握力が感じられた。
「北村修一郎です」
 今では、ほぼクィーンズイングリッシュに聞こえる発音で自己紹介した。どうしてこれほどの大物が社を訪れ、あまつさえ自分に会っているのか。世界最大規模のスポーツメーカーの創業者であり、巨大コングロマリットの現総帥なのだ。
「座り給え」
 オーエンスが修一郎に命じ、自身は先程まで座っていた執務机に戻っていった。修一郎は元の場所に再び座りなおした。アレンは空いている席に、いつの間にか座っていた。移民としての出自を持つ男だったはずだ。一代で今の地位と財産を築いていた。何かの期待を込めた薄い笑いが、口元に浮かんでいるようにも見えた。
 執務机の足元に置かれていた袋を持って、オーエンスは戻ってきた。一メートルに満たないほどの長さの包みを修一郎の前に置いた。柔らかな茶色の布にくるまれている。運んでいた仕草からも、それほど重量があるようには思われなかった。
「これは?」
 オーエンスに尋ねた。アレンが同席していることに関連はあるのだろう。しかしアレンが不意にこの部屋に現れたこと以上に、掴みどころのない話だった。
「開けてみたまえ」
 オーエンスが指示した。右手を伸ばし修一郎は布に触れた。コットン地だ。見た目以上に柔らかな触り心地だった。持ち上げてみた。軽い。細い棒状のものが手の中に感じられた。重量の配分バランスから、なにがくるまれているのかは分かった。しかしどうして自分に、この場で渡されるのだろう。修一郎の表情の変化を、アレンは見て取っていた。
「何が入っているのかは、分かったようだね?」
 横合いから尋ねられ修一郎がうなずいた。布地を全て取り去った。中から現れたのは、何の加飾もなされていない、艶消しの黒一色に塗られたテニスラケットだった。
「どこのメーカーのものですか? ……トライデント社ではラケットの製造を行っていないはずですが?」
 大まかなデザインは市販されている他のラケットと異なるところはない。どちらかといえば四角いボックス形状に近いフェイスをしている。丸いラウンド形状全盛の現在の流行とは、少し距離を置いたデザインだ。フレーム構造も見たことのないものだった。これを使っているプロは一人もいないはずだ。では新作なのか? しかしどこのメーカーがこれを作ったというのだろう。そしてなぜトライデント社の総帥が、自分にこれを示そうとしているのか。分からないことがさらに増えていった。
「X‐S‐2541‐HC」
 アレンが静かに告げた。おそらく、このラケットの型番なのだろう。X番がいまだに与えられているということは、開発コードのままということなのか。
「そのラケットはまだ試作品に過ぎない。完成と発売は一年後を予定している」
 修一郎の内心を見透かしたかのようなアレンの言葉だった。
「トライデント社の?」
 アレンが頷いた。ではテニスラケットの分野に新たに乗りだそうというのか。後発でゴルフクラブの製造は行っても、テニスラケットには頑なに手を出していなかったはずだ。
「どうして私に、これを?」
 理由の如何を問わずラケットの存在すらトップシークレットだろう。アレンとオーエンスは顔を見合わせた。何かのタイミングを図っているような仕草だった。
「ストリングスも張ってある。少し振ってみたまえ」
 オーエンスが指示した。トップに命じられた以上、社員としては従わなければならない。ラケットを持って立ち上がりテーブルから数歩下がった。それなりに広い部屋だ。金のかかった調度品に囲まれているとはいえ、素振りをするくらいのスペースは十分にあった。
 フォアハンドストロークのフォームで数度振ってみた。軽すぎず重すぎない。グリップ形状は全く新しいデザインだ。誂えたように手のひらにしっくりくる。スイングに合わせてラケットヘッドが綺麗に前方に抜けていった。振るだけで性能の高さが十分に感じられる。併せて小さな違和感があった。不快ではないがこれまでには感じたことのないものだ。
 ラケットを携えソファに戻った。包まれていた布の上へ丁寧にラケットを置いた。
「感想を聞かせてもらえるかな?」
 アレンからの質問だった。
「バランスのいいラケットだと思います。ややトップヘビーで振り抜けがいい。ボックス形状に近いフェイスにしてあるのは、プロ向けに飛びを抑えるためでしょう。フレームの内部にはなにか仕掛けがあるようですね。ストリングスの形状も手が加わっていて、スピン性能の向上が図られていると思いました」
 満足そうな笑顔が、アレンの表情にあった。
「……流石だな。ある目的のために作ろうとしているラケットだ。今後我が社の向かうべき新たな方向性の一端であり、未来でもある」
 穏やかにアレンが告げた。
「どのようなことでしょうか?」
「振ってみて、他に何かを感じたかね?」
 質問は、さり気なくはぐらかされたようだった。
「感想としては先程申し上げたとおりです。実際に打ってみれば、また異なるものが見えるのかもしれません」
「それでは一度打ってみてくれないか。その後でレポートを貰えるとありがたい。ストリングスのテンションは六十三ポンドにしてある」
 どうやらここまでが、予定されたシナリオだったようだ。投げかけられた言葉の趣旨を把握しかねた。なぜこれほどの企業秘密を惜しげもなく第三者に開示しようというのか。アメリカ国外にいる、駆け出しのオッズメーカーに回ってくるような役割ではないはずだ。
 オーエンスとアレンは旧知のようだが、少なくともこれまでにアレンと自分の間にはなんの関わりもない。このようなことを頼まれるいわれなど、どこにもないはずだった。
 テスターならプロを含めトライデント社にはいくらでもいるだろう。ましてや六十三ポンドのテンションはどういった理由で選択されたのか。自分の適性テンションをトライデント社が把握しているはずはないというのに。
「私からも命じる。ミスターアレンの希望を実現したまえ。無論、業務扱いにしよう。最優先であたってくれ」
 デスクの向こうからオーエンスの声が届いた。ラケットの試打をしてレポートを上げる。いずれもさして難しいことではない。一日、いや数時間あれば終るだろう。大きなトーナメントの間の時期でもあり、比較的余裕はあった。業務命令に逆らうわけにもいかない。
「承知しました。ご期待に添えるかどうかはわかりませんが」
「すまないな。よろしく頼むよ」
 薄く笑っているようなアレンの表情にほとんど変化はなかった。なぜ自分にこのような依頼を、と再度尋ねても、答えが開示されることはないように思われた。
「観光を兼ねてミスターアレンは今回イギリスを訪れている。是非私もレポートを見てみたい。三日後のこの時間に、ここで貰えるかな?」
 オーエンスの声が飛んできた。軽く頷き、承諾の意思を示した。どうやら話は全て終わったようだ。茶色の布で再びラケットを包んだ。立ち上がり、そのまま部屋を辞した。先程の廊下を抜けエレベータに再び乗り込んだ。
 手の中にあるのは樹脂で作られたテニスラケットだ。ストリングスが張ってあるとはいえさして重くはない。しかしその価値は数億ドル、あるいは場合によっては数十億ドル以上にもなるだろう。新たなテニスラケットの開発にはそれほどまでの経費を要する。
 コットンの感触は変わらない。それでも抱えた掌は汗をかいている。軽いはずのラケットが、手の中で急に重みを増したように感じられた。

つづく

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