第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み STRANGER’S RACKET

「お呼びと伺いましたが?」
 広いデスクの前に立ち、努めて抑揚のない声で修一郎が尋ねた。シンプルながらひと目で高価なものとわかるペーパーウェイトや万年筆があった。マホガニーで作られた一枚板のテーブルに載せられていた。いかにもすべてが、使い心地の良さそうな造形だった。
「よく来てくれたな。まあ、掛けてくれ」
 サイドテーブルに載せられた大きなディスプレイから、トッド・オーエンスが顔を見せた。にこやかに告げると立ち上がった。部屋の中央に置かれたソファセットへと、修一郎を促していった。どこから見ても端然とした白髪の初老の紳士である。細身の外見からは、その内実が穏やかにも見える。しかし常に生存競争に晒され、生き馬の目を抜くブックメーカーのトップでもある。どこか油断ならないところも確実に内包しているようだった。
 座るように手振りで示され、修一郎が先に腰を下ろした。テーブルを挟んだ正面にオーエンスが座った。
「この間のUSオープンのオッズは実に見事だった」
 まずオーエンスが口火を切った。満面の笑みだ。
「ウイリアムヒルもラドブロックも、いつものように第一シードのオブライエンが勝つと思ってオッズを切っていた。けれどわが社だけは、優勝した第五シードのマクベリーをきちんと押さえていたな」
「私ひとりの決定ではありません。マネージャの判断です」
 これ以上はないほどさりげなく、修一郎が返した。
「いや、よく思い切ったものだ。大まかなところはフレディからも聞いている。オブライエンが負けるとはとても思えない状況だった。他のブッキーとあれだけのオッズ差が出てしまえば、どうしてもアービトラージを組まれてしまう。口惜しいが、全体としてはいい収益があがった。客も確実に増えている。最近のテニス部門の好調な実績は、掛け値なしに君の切るオッズのおかげだと思っているよ」
 部門マネージャへの聴取は既になされたらしい。では、この呼出の意図はどういったことなのだろう。
 ブックメーカーにおけるオッズ、つまり配当額を示す数字の設定は、なによりも重要な要素だ。世界中に数千はあるといわれる大小のブッキーが、それぞれにオッズを切る。配当額をあらかじめ客に示すのだ。同じ対象に賭けるのであれば、当然ながら配当額が大きいほど客の人気は高くなる。しかしそうかといって、闇雲に根拠も無く高いオッズを切っていてはブッキー自身が損失を被る。それでは経営が成り立たない。
 多くのブッキーが採用するブックメーカー方式は、日本の中央競馬会などで採用されているパリミチュエル方式に比べ、賭けを受ける側にとって難しい点が多い。客が掛け金を支払った時点で、固定の倍率が約束されることになるからだ。
 ある時点で三倍として示されたオッズは、それ以降たとえ特別な事情が生じても、結果が判明するまでそのまま固定される。ブッキーと客との契約は、賭け金が支払われた時点ですでに成立している。あらかじめ示された配当は、基本的に何があろうと必ず約束される。それ以降に生じた変化については、新たな掛け率でのオッズが順次提示されることになる。客にとってもブッキーにとっても、どの時点で賭けが成立しているのかは重要なポイントだ。
 イカサマでもなければ、本来賭博において絶対の配当確約などあるはずはない。しかしブックメーカー方式では、事前に配当を受けることが約束される場合がある。完璧なリスクヘッジを行った上で、複数のブッキーから提示されるオッズ差を利用して必ず配当を受けられるように賭けることができる。それがアービトラージと呼ばれる手法だった。
「なぜ君は、マクベリーを推したんだ? 結果を知った今となっては当たり前のことのようにも思えるが、オブライエンの強さを知らないわけではないだろう?」
 オーエンスが尋ねた。マジックに対する純粋な疑問だ、という口調だった。かつて部門マネージャからも同じ質問を受けていた。オッズ設定の段階だった。その時と同じ説明を修一郎は繰り返した。
「まず、準決勝あたりでオブライエンが棄権する可能性が高かったことが挙げられます。ひとつ前の大会でのことです。決勝戦の終盤で彼は足をかなり痛めました。クロスコートへの深いジャンピングスマッシュを決めた時です。痛そうな素振りは試合中に見せていませんでしたが、捻っていたのは確実です」
「現地に行って試合を見ていたわけではないだろう? どうしてそれに気づいたんだ?」
 懐疑的な目が、修一郎を見据えていた。
「オブライエンは大変にボディバランスのいい選手です。体幹がしっかりしており、百九十センチに近い体を絶妙に素早く使うことができます。滅多なことではケガをしません。しかしあのプレーの時はジャンピングだったこともあって、右ひじがいつもより三~四度入りすぎていました。試合の後半でなければさほどの事もなかったでしょう。それでも右足が地面に降りたタイミングは、彼の予想よりコンマ数秒遅かったと思います。次のボールへの対応が若干でも遅れた分、地面に逃がすべき体重の影響を右足の長指伸筋が受けることになりました。その大会前の練習中に彼が痛めていた部分です。十分に回復していない箇所に掛かる負担としては、かなり大きすぎるものだと思われました」
 こともなげに修一郎が答えた。
「ちょっと待ってくれ。なぜオブライエンが大会前に足を痛めていたことを知っているんだ? 試合のようにテレビで中継されていたわけでもないだろう?」
「私はオッズメーカーです。その程度の情報を得る手段はいくつか持っています」
「ウイリアムヒルの腕利きすら知らなかった事実を、かね?」
 ウイリアムヒルは世界最大規模を誇るブックメーカーだ。テニストーナメントに関する部分だけでも、フォルク社のスポーツ部門全体とさして変わらない規模を誇る。その規模に見合った有能なオッズメーカーを複数抱えてもいた。
「彼らが知っていたのかどうかは私にはわかりません。掴んではいたが、影響はないと判断したとも考えられます」
 告げられた回答に、オーエンスはニヤリと笑った。
「そう思ってはいない、ということか」
 黙したまま、いずれとも修一郎は語らなかった。
「次に……」
 修一郎が言いかけ、オーエンスが押しとどめた。
「まあ、とりあえずそこまでにしよう。今日来てもらったのには、もうひとつ理由がある」
 マホガニーのローテーブルに載せられた、真鍮製のハンドベルを小さく振った。

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