第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み STRANGER’S RACKET

『STRANGER’S RACKET』

橘伊織(たちばな・いおり)56歳
1964年生まれ。地方公務員。
大学卒業後、メーカー勤務を経て現職。


 一

 大きな振り子時計が午後三時の鐘を打った。柔らかな響きが耳に心地よい。内蔵されたハンマーがコイルを叩いている音だ。大きな振幅が、ゆったりとフロア全体に広がっていった。
 時計の筐体は自立式になっている。堅牢なアンティークものだ。造られて百年は経つだろう。高さは一メートル以上ある。幾重にもニスを塗られた木目が美しい。大きな上げ下げ窓に両側から挟まれ、背後にある北側の壁の装飾をほとんど覆い隠していた。
 置かれているのは、六階建てビルの三階部分にあたるフロアだ。時計と同じくかなり年季が入っている。いたるところに老朽化が見て取れた。耐震補強工事などは行われてはいないようだ。それでもグレートブリテン島では、ごく稀にしか大規模な揺れなど起こりはしない。
 一方で、オフィスのいたるところに最新式のネットワークシステムが導入されていた。このフロアだけでも三十人以上が働いている。それぞれの社員の前には大型のディスプレイモニターが置かれていた。中にはデュアルか、それ以上の数のモニターを組み合わせた者もかなり見受けられた。古典と先端のアンバランスが融合し、奇妙なほどの整合が保たれていた。

 鐘の音を待ちかねたように、昼下がりのティータイムが始まった。紅茶の香りが広いフロア全体に漂い始める。働く者にとっては、慣れるほどにかなりいい習慣だった。この優雅な時間を設ける会社が英国内ではいまだに多いことも、実感としてよく理解できた。
 ここフォルク社は英国政府公認のブックメーカーだ。英国内では準大手の位置にいる。比較的新興の会社ではあったが、着実に業績を伸ばしていた。
 スポーツブックと呼ばれる各国のプロ・アマスポーツの結果から、英国王室の結婚、アメリカ大統領の就任演説のネクタイの色まで、本当になんでも賭けの対象としてブックメーカーは扱う。一般にはブッキーと省略して呼ばれることが多い。ただし少なくとも英国内では、公然と戦争に賭ける事だけはタブーとされている。そのくらいが若干の例外といえた。
 ブッキーの規模はさまざまだ。一人で切り盛りしている小規模なものから、なかには一万人程度の大量の社員をかかえ、株式を上場している巨大な会社組織まである。いかにブックメーカーというシステムが一般に浸透しているかの表れでもあった。

 自分に与えられたデスクに座り、北村修一郎はスポーツグラフィック誌を読んでいた。
 数週間前に終わった、フラッシングメドウでのUSオープンが特集されている号だ。男子トーナメントで優勝したマクベリー・フラナガンを称える特集が組まれていた。誇らしげに優勝カップを頭上に掲げ、満面の笑みを浮かべているフラナガンの大きな写真が添えられている。
 廊下へ繋がるドアから、長身の女性がフロアに入ってきた。所狭しと並べられたデスクの間を縫うように、そのまま修一郎のデスクに近づいてきた。にこやかに、通り過ぎるデスクの順に挨拶している。年齢や性別を問わず、誰もが同じように挨拶を返していた。互いが、いかにも慣れた仕草だった。
修一郎のデスク脇で立ち止まった。腰に手を当て、軽く前後に足を開いてスタンスを取っている。ポージングが見事に決まる素晴らしいスタイルをしていた。
「ボスが呼んでいるわよ。ミスターストレンジャー」
 かなり重要なメッセージが高い位置から聞こえてきた。どちらかと言えば緊張感のない柔らかな声だ。その分親密さが感じられた。
「ダディが、僕に?」
 訝しげに修一郎は顔を上げた。ダディは、社長であるトッド・オーエンスの、社員間でのニックネームだ。伝えてきたのはセクレタリーのパティだった。フルネームを聞いたことはない。社長専任秘書という肩書を持っていた。笑った顔が映画女優のようにチャーミングだと誰もが言う。独身のブロンド美人で三十歳前後のはずだ。真偽は不明だが、KB大の数学科を首席で卒業していると同僚から聞いたことがあった。初めて見たときから、旧知の人にとてもよく似た雰囲気を持っている女性だと、修一郎は感じていた。
 彼女の言うストレンジャーとは姓名を表しているのではない。誰彼となく、時折こう呼ばれることがある。ここへの新参者、外国人、あるいはちょっと変わった人という複数のニュアンスに、親密さを込めて呼びかけられているらしい。いずれもがそのとおりだった。それなりに気心の知れた仲だ。おそらくは最後の意が最も強いのだろう。
 欧米では実年齢よりも東洋人は比較的若く見られる。それを考慮しても修一郎のほうが、パティより幾つかは年下にあたるように思われた。透き通るような色白のパティとの対比で、よく日に焼けた精悍な顔つきをしていた。
 早く行って欲しいんだけど、と言いたげなパティの瞳に覗き込まれた。
「お昼に、向かいのファストフードでピクルス抜きのハンバーガーを頼んでいたでしょう? まだキュウリが食べられないの?」
 気づかなかったが、どうやら見られていたらしい。
「わかった。すぐに行くよ」
 仕方なく返事をすると、読みかけのスポーツグラフィック誌をデスクに伏せた。椅子から立ち上がり、フロアを出た。廊下を抜け、あちこちが傷みかけた古い造りのビルの中を、エレベータで六階へ向かった。
 実にさまざまな事象を賭けの対象にするこの会社で、プロテニストーナメントに関するオッズの算出を修一郎は受け持っていた。呼び出されたのは、テニスセクションの総括マネージャたるフレディ・ロジャースではない。一担当者である自分なのだ。ウイリアムヒルほどの巨大組織ではないとはいえ、現在の担当になって三年になるが、会社全体のトップから直接の呼び出しを受けることは滅多にない。それも社内メールで済むものを、わざわざ専任秘書を派遣している。直接の呼び出しなど、どうせ碌な用件ではないだろう。
 小さなベルの音とともに、かなり揺れながらエレベータが止まった。もどかしいほどゆっくりと扉が開くのを待って、廊下の突き当たりにある社長室へ向かった。
 ドアの前に立ち、三度ノックした。
 ほとんどのことに、無頓着なほどトッド・オーエンスは構わない。どの社員に対しても砕けた態度を示すトップだ。にもかかわらず、こういったところには妙に拘る。ジョンブルの末裔であるからか、二度のノックでは我慢ができないらしい。ノックは三度と決めているようだった。それで飛ばされた社員もいると聞いたことがあった。
「入ってくれ」
 聞きなれた声がドアを通して聞こえてきた。促されるようにドアを開け、ゆっくりとオフィスに入っていった。華美ではないが、質実な豪華さのある部屋だった。

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