第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 嗜虐的世界(サディスティック・ワールド)

 次の日、また次の日、十日たってひと月経っても木戸蘭丸は出席してこなかった。新任の紗良にとってはいきなりの洗礼である。中間試験も近づいているし、何より出席日数が足りなくなると進学さえ危ぶまれる。
 何度か家に電話をして留守番電話にメッセージを残しても、木戸家からの連絡は来ていない。このままだと自宅訪問もありうるかも……そう思っていた矢先、かけた電話がついに繋がった。出たのは女の声である。
「なんのご用でしょうか〜」
 舌足らずで間延びした調子の話し方。最初、紗良は子供が出たのかと思ったが、声の質から察するに大人の女性だろうと思い直した。
「蘭丸くんのことでお伺いしたいのですが……失礼ですが、お母様でいらっしゃいますか」
「はい〜、母です。なんのご用でしょうか〜」
「あの、本年度から蘭丸くんのクラス担任となりました古川と申します。蘭丸くんが一度も学校に来ていないので、どういった事情がおありなのかと思いまして……」
 少し間が空く。電話口からは、蘭丸の母の深い呼吸音が雑音のように聞こえる。
「蘭丸は〜仕事をしていて忙しいんです」
「仕事ですか?」
 意外な返答に紗良は戸惑い、少し上ずった声になった。
「はい〜仕事です」
「いったい、なんのお仕事を? ご自宅でされてるんですか?」
「家にいますよ〜」
「あの、学校に来てもらうようにはお願いできませんでしょうか。もうすぐ中間試験もありますし、単位や出席日数が足りなくなると進学の可否にも関わってしまうものですから」
 再度、しばらく間が空いた。雑音のような深い呼吸音。
「仕事がありますから〜」
「そうですか……」
 話が進まない。このまま食い下がって母親を説得してもあまり意味がないような気がしてくる。ならば会話を終えるしかないように思えるが、やっと繋がった電話である。少しでも蘭丸に登校させるきっかけを与えてやらなくてはならない。すぐに諦めることは、新任教師である紗良にはできなかった。
 電話口から漏れる呼吸音を聞きながら思案する。「仕事」を終わらせることはできないのか、あるいは登校して学校で「仕事」をすることを自分が許せば、出席日数だけでも稼げるのではないか、でも、そんなことを許せば他の生徒たちから顰蹙を買うかもしれないし、学年主任の野中にも怒られてしまうかもしれない。あくまでも勉強のためにちゃんと学校へ来て欲しいのだ……。
——蘭丸と直接会って話せばわかってくれるかもしれない。
「木戸さん、もしよろしければ今日か明日、そちらへお邪魔してもよろしいでしょうか? 一度蘭丸くんとも直接お話をさせていただきたいんです」
 意外にも間が空かず母親は返事をした。
「はい〜どうぞ。いつでも来てください」
 電話が切れる。これで良かったのだろうかと紗良は不安になった。ただ、自宅訪問ができることになったのは一歩前進だ、とも思う。
 早速向かおうとデスクの上のものをカバンの中に入れていると、隣のデスクから声がした。
「木戸蘭丸?」
 声の主は四元だった。顔を見ると眉をひそめている。
「え、あ……はい、うちのクラスの、木戸くんのことでちょっと」
「あ、ごめんね、急に。木戸蘭丸って去年俺のクラスにいた生徒だからさ。なに、あいつ学校来てないの?」
 ひそめていた眉を戻し、四元は爽やかな笑顔を浮かべた。右の八重歯が覗き、少年っぽさの残る顔立ちをしている。
「はい……私が担任になってからは一度も。あの、木戸くんってどんな生徒だったんですか」
「うーん、そうだな。なんて言えばいいか、接しづらいやつだよ」
「接しづらい?」
「ああ。成績はいいんだけどね、人を小馬鹿にしたような態度を取ってくるんだよ。もともと頭がいいんだろうな。俺の授業なんて一切聞いてなくて、注意したら薄ら笑いを浮かべながらすみませんって小声で言うんだ。どこか気味が悪いというかさ。でも欠席せずに学校にはちゃんと来てたんだけど。親はなんて言ってたの?」
 四元の蘭丸に対する評価の言葉に、紗良は少し不快感を覚えた。まだ顔も見ていないのに、自分のクラスの生徒というだけで愛着を感じているんだろうかと自ら不思議な感覚に陥る。
「お母様は、『仕事をしている』っておっしゃってて……」
「仕事って? アルバイトか何か?」
「わかりません。ただ『仕事』と。家にはいるらしいんですけど……」
「ふうん、よくわからんけど、やっぱ変なやつだなあ。あんま関わらない方がいいよ、サラちゃん」
 サラちゃんと呼ばれ、紗良はちょっと驚いた。
「……そうですか。でも私、もう少し頑張ってみます。自宅訪問させてもらえそうですし」
「へえ、よくそこまでするな。まあ頑張ってね。それよりさあ! 今度親睦会やろうよ。一応、他の先生も誘って」
 右手でグラスを傾けるようなポーズをとりながら四元は言った。ええ、ぜひ、と軽く返事をして、紗良はその場を後にした。
 一応学年主任に報告しておかなければならないと思い、野中の席まで行って話しかける。木戸蘭丸がすでにひと月無断欠席をしており、これから自宅訪問をするという旨を伝えると、野中は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「なんだって! 先生、どうして早く私に相談しないんですか! ひと月も無断で欠席させてしまってはダメでしょうが」
 怒鳴るような口調で言われ、紗良は萎縮してしまう。
「すみません、報告が遅れてしまって……」
「遅すぎです。まったく、生徒を一人でも留年させてしまっては絶対にダメですよ。ましてやあの木戸くんとなると本当に一大事ですからね。彼はどこの大学でも入れる、東大でもハーバードでも入れるんですよ。わかってますか! なにしろ全国模試で一位をとったことだってあるんだから。で、今から自宅に行くんですよね? 私もついていきます。異論は認めません」
「異論だなんて……恐縮です。よろしくお願いします」
 ひたすら頭を下げながら、紗良はそう言うしかなかった。新任の身で主任に逆らうことなど到底できない。
 二人は早速K学園を出て、木戸家へと向かった。野中が車を出し、紗良は助手席に乗せてもらった。向かう途中でも、野中は何度となく紗良の非を責め続けた。その度に紗良は、すみません、と呟きながら頭を下げることしかできなかった。
 木戸家は閑静な高級住宅街にあり、二階建ての邸宅だった。洋館を模した瀟洒な造りであからさまに金持ちとわかる家である。
「すごくいいお家ですね……」
 と、紗良はつい漏らした。
「父親が東大出で、企業を立ち上げて大成功したんですよ。今となっては誰もが知る会社です。AI開発に力を入れている WOODEN DOORってとこ、ご存知ないですか?」
 学校教育ばかり熱心で世間にあまり目を向けてこなかった紗良はその名前を知らなかった。うつむいていると野中は見下すような目つきで紗良を見つつ、
「こういう知識も教師としては必要なんですがねえ……まあいいでしょう。とにかく、蘭丸くんはなんとしてでも説得して学校に来させるんです。頑張って説得しますよ」
 と言った。
 インターフォンを押すと、しばらくしてガサガサと音が聞こえ、「は〜い」と間延びした声がした。紗良が名乗ろうとすると隣から身を乗り出した野中がインターフォンに口を思い切り近づける。
「こんにちは。わたくし、K学園二学年主任の野中と申します。お忙しところすみません、蘭丸くんのことでお話をさせていただきたく参りました」
「あ〜、電話がありましたかねえ。女の先生かと思ってましたけど」
「お電話しましたのはクラス担任の古川でして、一緒に来ております」
「はい〜」
 ガチャリと受話器を置く音が聞こえた。
「今日はあなたは出しゃばらなくていいですから、私がメインでお話をさせてもらいます。異論は認めません」
 そう言い放つ野中に、紗良は「恐縮です……」としか言えなかった。
 しばらくすると玄関の戸が開き、ふらふらと小さな階段をおりて門のところへ一人の女性が来た。黒髪を後ろで簡素に結び、うねった前髪の下で充血した両目が虚ろに開いた、地味な印象の女である。化粧をしているがいかにも雑で、口紅などはただ乗せただけといった感じだ。女はゆっくりと頭を下げてから門を開け、「蘭丸の母です〜」と言った。
 空気の流れに乗ってふわっとくる臭いがあった。二人とも瞬時にそれが何かがわかるほどに強烈な臭い。アルコールである。
「どうぞ〜、お入りください〜」
 母親が促すので二人は軽く頭を下げてから、門の中に入る。ふらふらと階段を上がる母親に続き、玄関の戸を抜けた。その瞬間にも、何か独特な異臭がした。しかし今度は、なんの臭いなのかはよくわからない。
「お母さん、蘭丸くんは今なにをしていますか。できれば直接会ってお話がしたいのですが……」
 靴を脱いでから野中が言うと、母親は、
「今仕事中ですから、どうでしょう〜」
 と言う。
「お仕事というのは、自室でしているんですか」
 野中の問いに、母親ははい〜、と答えた。
「お部屋の方までご案内願います。蘭丸くんの将来がかかっておりますので。異論は……」
 言いかけて慌てて野中は止めた。
 母親は頷いたあと黙って二人に背中を向け歩き出した。野中と紗良は顔を見合わせてから後に続く。野中はしきりに咳払いをしていた。さすがに緊張しているのか、あるいは臭いのせいもあるのかもしれない、と紗良は思った。
 部屋はここです〜と言い、母親はふらふらと階段を降りていってしまった。置き去りにされた二人は案内された部屋のドアを見た。ごく普通の、木製のドアである。
「蘭丸くん! 野中だ。いるんだろ、もしよければちょっとお話しできないかな!」
 ドアの向こうにいるであろう蘭丸に向かって、野中は大きな声を出した。いくら待てども返事はない。今度はこんこんとノックをしてから、さらに大きな声で、
「なあ! 会ってくれるだけでいいんだ、頼むよ!」
 と言ったがやはり返事はない。野中の小さい舌打ちを紗良は聞き逃さなかった。あなたも声をかけてください、とでも言うように、野中は紗良の方を見て顎でドアを指し示した。紗良は無言で頷き、部屋のドアをノックする。
「木戸蘭丸くん、初めまして。今度からあなたの担任になりました、古川です。一度も出席がないので心配になって会いに来ました。よかったら顔を見せてもらえないかな」
 紗良としては大きな声を出したつもりだった。が、やはり返事はない。耐えかねたのか、野中はドアのノブに手をかけ回し始めた。しかし鍵がかかっていてドアが開くことはなかった。

つづく

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