第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 嗜虐的世界(サディスティック・ワールド)

 壇上から見る生徒の顔はどれも陰鬱で、とてもじゃないが、新たな春を迎えた高校生たちとは思えなかった。自分が高校二年生の時、少なくとも二年生になったばかりの日は多少の希望に心をときめかせていたような気がする、紗良は思う。進学するというのは、そういうことじゃないのか——。
 新任の挨拶は前夜までに何度も復唱していたから、何も考えなくても口から淀みなく出てくる。そのため紗良には、整然と並ぶ生徒一人一人を、喋りながらでも遠目ではあるがじっくりと眺めていくことができた。その結果得た印象がこうだった、「陰鬱で不気味」。誰一人として目が合わない。新たに入った教師のことなど、一切興味がないかのようだったのだ。
 紗良から見て右端の何列か、つまり新入生たちの集団は別だった。彼ら、彼女らの顔の多くは一般的な高校生の、あどけなさの残る溌剌さを秘めた表情を浮かべていた。しかしながら自分の担任する学級はすでに決まっているのである。二年二組。
 紗良は緊張する。K学園は伝統的に毎年クラス替えが行われるので前年の一年二組でなにかしらの問題があったとか、そういうことが理由ではなく、重要なのは二年生であるということなのだ。
 どういうことかというと、K学園は類稀なる厳しい教育で有名であり、たったの一年でもその教育を受けると多くの生徒が人格に多少の異変をきたしてしまうのである。教育界ではその噂を知らぬものはなかった。当然、紗良も例外ではなく、その噂については重々理解をしたつもりでこの学校へ赴任の希望を出したのである。
 それでもK学園は、大学への進学率という点から見れば一流で、全国で五本の指に入るほどなのである。前年度も国立大学の医学部への入学者数は全国一だった。なので入学志願者も後を絶たないのだ。
 始業式の後には、クラスごとのホームルームの時間が設けられていた。教壇に立つのは教育実習以来で、紗良の足は少し震えていた。自身の年齢が二十二であり、高校二年生の生徒たちとそれほど離れていない。そのことが余計に紗良の緊張を増加させた。
 しかし、それよりも緊張を助長させるものがあった。それは紗良が教壇の上に立つ前から生徒たちが各々の席にきちんと座り、一切私語を発することなく前を向いていたことである。
 とにかく自己紹介を済ませ、今度は生徒の点呼をとっていく。欠席は一人だけで、木戸蘭丸という男子生徒だった。連絡は受けていないので、無断欠席である。
 問題のある子、リーダー格の子、というのは大抵の場合各クラスに均等になるように分けられていて、誰がどんなキャラクターに該当するのかを担任は事前に知らされている。紗良は新任ながら二年二組の担任なので、当然そういった情報は文書ですでに通知されている。紗良の記憶によれば、リストアップされた文書には木戸蘭丸という名前は記されていなかった。つまり木戸蘭丸は問題児でもなければリーダー格でもないということだ。
 学年全員の顔写真付きの名簿ももらっているが、どうもよく思い出せない。
 教科書を配布したあとは、早々に学級内での委員決めが行われた。
「学級委員長の立候補者はいませんか? あるいは、推薦でもいいんですが」
 紗良の言葉に、無言で右手を挙げたものがいた。
「えっと……ごめんなさい、まだ覚えきれていなくて」
 紗良が言うと手を挙げた男子生徒は無表情で頷き、すっと立ち上がった。
「佐藤です。僕、去年も学級委員長をしてました。好きなんです、こういうの。と言っても他のみんなと比べて相対的に、ですけど」
 独特な言い回し。だけど立候補者がいて助かったと思った。自分が学生だった頃、学級委員長の立候補や推薦がまったくなくて担任が困っているのを紗良は見たことがあったからだ。
「立候補ありがとう。一応訊きますけど、他に立候補や推薦などはありませんか」
 手は上がらない。決まりである。
 佐藤秀作——リストアップされた文書にリーダー格として記されていた名前だった。痩せ型の高身長、色白で狐目。
「先生、よろしければ僕に委員決定の司会を引き継いでいただけませんか」
 なんの物怖じもなく佐藤は言った。この申し出を拒否する理由は紗良には何一つない。
「それじゃあ、佐藤くん、よろしくお願いします」
 それからホームルームは紗良の代わりに壇上に立った佐藤が取り仕切り、あたかも最初から決定されていたかのようにスムーズに他の委員が決まっていった。
 それでその日のホームルームは終了となった。
 教師にとっての業務はまだ続く。十人程度が集える小規模な会議室で開かれた学年会議では、長机の端で主任の野中が熱弁を振るう。
「……ですから生徒たちは、親御さんにとってはもちろんですが、我々にとっても宝なのです。決して教育に妥協をしないでいただきたい。目標は大学進学率百パーセント、これ以外にありません。幸いにして、今回我らが受け持つ学年は例年と比較しても非常に優秀で、全国でもトップレベルの生徒だって多くいる。ですがまだ、下位層の連中は伸び悩んでいる。皆さん方にはさらなる底上げを目指して……」
 話を聞きつつ、紗良は部屋に集まった面々を横目で見ていく。女性は自分以外に一人もいない。私立の高校では往々にしてある状況だ。年齢的に近そうなのが右隣の四元、見たところまだ二十代と思われる。学年主任の野中が五十くらいだろうか、あとは皆三十代半ばから四十前半といったところ、と紗良は推測する。
「藤岡先生」野中が名指しで呼んだ。
 はい、と返事をしたのは、左斜め前に座っている肩幅の広い男性教師だった。
「前年度の生徒たちのアンケートによると、宿題が一番少なかった教科があなたの担当しておられる数学だったそうですが、どのような意図がおありで?」
 尋問するような口調で野中はその教師に言った。
「宿題は、あくまでも最低限の義務だと考えているからです」藤岡と呼ばれた教師は落ち着いた調子で言う。「たくさん出して、それだけに追われていてはその子が本当にやりたい勉強ができなくなってしまう。自由な時間も大切なんです」
 ほお……と一言だけ、野中は腑に落ちないといった様子で言い放ち、
「……とにかく、落ちこぼれを出さんようにしてくださいね。それじゃあ明日から全力で取り組んでいきましょう」
 と会議を締めた。
 紗良が帰宅したのは日没の少し前だった。先月越してきたばかりのワンルームにはまだベッドと小さなテーブルが一つしか置かれていない。疲弊した紗良はカバンを床に置くとストッキングを脱ぎ、飛ぶようにしてベッドに身を投げた。火照った体が自身の重みでマットレスに沈み込み、ようやく緊張の糸がほぐれていくのを感じた。無意識的にではあったが、ずっと気を張り続けていたのだとわかる。
 このまま寝てしまおうとまで考えたが、木戸蘭丸という欠席していた生徒の名前が脳内に蘇ってくる。
——そうだ、名簿……。
 重く感じる体を起こし、机の上に置いてあった名簿で木戸蘭丸の顔を確認する。整ってはいるが、半月状の垂れた目以外にこれといった特徴の探せないような顔だった。

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