第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 嗜虐的世界(サディスティック・ワールド)

『嗜虐的世界(サディスティック・ワールド)』

鈴涼ノ介(すず・りょうのすけ)36歳
1984年、沖縄県生まれ。歯科医師。
東京大学中退、東京医科歯科大学歯学部歯学科卒業。


 序幕 

 絶対に叶えられない夢が叶おうとしてる。
 やっとこれで自由になれる。

 ……。

 いったい今、何度目の朝で何度目の夜なんだろう。朝ならこの世界はモウ二度と闇に覆われることはないし、もしも夜なら、二度と陽の光が照ることもない。
 つまりどっちだってイイ。なんの関係もないんだ、なんの関係も……。

 ……。

 スー……ハー……スー……ハー……。

 体中がムズ痒い。見えない何かが全身の皮膚の上を這っているみたいだ。不快。それなのに、笑いがこみ上げる。ハハ、ハ、……。こんなに気分がイイのは生まれて初めてだ。生まれて初めて……?

 俺はイツ生まれたの?

 スー……ハー……スー……ハー……。

 で、イツ死んだんだっけ?

 第一幕 部屋

 桜が舞った。
 県民交流センターでの辞令交付式が終わると、古川紗良はまっすぐ駅まで歩いた。目につく歩行者といえばスーツを着た同期たちである。教職員志望の人間の数は意外なほどに多かった。年齢もやはり近そうな人が多い。
 今朝は花冷えでリクルートスーツの上に薄手のロングコートを羽織ったけれど、日が頂点からやや傾いた今の時間は春の陽気を取り戻していて、ブラウスの下にうっすらと汗が滲んでいた。駅に着く前に紗良はコートを脱ぐ。三月の終わる頃である。私服の中高生がちらほら、駅に出入りするのが見える。
 次の電車まではまだ時間が少し空いた。切符を買い、ホームのベンチに紗良は腰掛ける。向こう側のホームの壁に張り付いた広告の文字には見覚えがあった。冬に一度、この駅に来たことがあった。あの時は寒かったな、そう思いながらあることに想いを馳せ、紗良はスマホを取り出し画面を触る。忘れるはずもない日付。メール画面で、十二月二十五日まで遡った。
——もう二度と会わない。
 受信時刻は午後十一時。先に帰ってしまった芳樹からの最後の返信だった。半年間付き合って、ようやく心を開くことができそうだと思っていた矢先の別れだった。
 だけど、仕方がないと割り切れることができたのは、紗良自身の負い目からである。男性を信じることができないということ。中学生以降のいわば呪いだった。結局、芳樹には話すことすらできなかった。口に出すことがどうしてもはばかられたのだ。
 母親の再婚相手からの性的被害。それは再婚直後に、唐突に起こったことだった。母親のいない夕方、早めに帰宅した義父はまだ制服を着ていた紗良になんの脈絡もなくいきなり襲いかかった。……事は最後まで為された。何も知らない少女だった紗良は突如汚されたのだ。しかも一度ではない。母親に泣いて訴えるまで、数回繰り返された。
 爾来、男性と話すことすらうまくできなかった紗良だったが、昨年の夏に大学のクラスメイトだった芳樹の人柄に、本人にとっては本当に奇跡的に、惹かれたのだった。その折に芳樹の方からもアプローチがあって、初めて交際というものを経験することになったのである。
 しかしながら、体に触れることはどうしても許すことができなかった。
 芳樹からの誘いは何度かあって、その都度紗良は謝罪を添えて断り続けていたのだった。精神的努力は常にし続けていた。それでも、手を繋ぐことすら紗良にはできないままだった。
 十二月二十五日、五年ぶりのホワイトクリスマスの日、奇しくもこの駅で電車を降り、デートをした二人だったが、食事の途中で不機嫌になった芳樹はそのまま会計もせずにレストランを出て行って、それから帰ってこなかった。そのあとのメールを、このホームのベンチの上で読んだのだ。
 あの時は夜で、広告の文字も雪で霞んでいた。それが今では暖かい陽光を抜けた先にくっきりと見える。胸の奥で心が何かを訴えているように感じたが、スマホをカバンに戻し、コートを膝の上に置いたまま、まだ来ぬ電車を紗良は待つのだった。

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