第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 確かに、燃えている

『確かに、燃えている』

西田快(にしだ・かい)36歳
1983年生まれ。三重県出身。
甲南大学文学部卒業。配達員。



一、金曜日    河井杏菜、街田康平、高橋直久

   あなたが失った人を返却します。
   十月一日、金曜日、午後五時に、緋の町の、緋の橋の上でお待ちしております。
   必ず一人で来てください。

 訳の分からない手紙を受け取ってから一日、蓮(れん)がいなくなってから二日が経っていた。
 バスの座席に差し込む西日を瞼で弾きながら、河井杏菜(かわい・あんな)は窓の外を眺めていた。大事なひとり息子を救出しにいくというのに、このバスは停車しては軽快なベルを鳴らすという作業を営み続けている。
 最寄りの駅で電車を降りたものの、犯人が指定した「緋の町」までは歩いて二十分。今の杏菜にタクシーを利用する経済的余裕はない。おそらく蓮を救出して都内に戻る際もこのバス、もしくはパトカーに乗ることになるのだろう。
 大通りでバスが止まると歩道では十人ほどの歩行者たちが青信号の瞬間を待っていた。横目でざっと目を通すが、目にとまるようないい男はいない。杏菜はすぐに視線を戻す。
 以前、歩行者として自分が信号待ちをしている際、同じようにバスが目の前に停車したことがあった。中は満席で立っている人もいた。誰もが自分のことを見ている気がした。
 美人。厚化粧。気が強そう。女を武器にしている。そのくせ、けっこうなトシじゃないか。自分の外見に対する十人十色の感想を杏菜は頭の中で巡らせていた。
 実際に次の停留所へと急ぐバスに乗っていると歩行者を注視する気など湧かない。自分も今それどころではない。結局、低速で生きている人間は現状のあちこちを気にし、高速で走っている人間は今を気にする間もなく次のことを考えているのだろう。
「次は……『緋の町』」
 目的地の名前がようやくアナウンスされた。車内にいる三人の乗客が誰も押さないことを確認して、杏菜は停車ボタンを押した。優しい音色とともに「つぎ、とまります」の電光文字がぼやける。
 以前、蓮が「僕が押す、僕が押す」と言って、この音色を聞いたあと喜んでいた。今、目前に迫っている緋の町にある緋の橋の上で難なく蓮の手を握れば、帰りのバスでボタンを押させてあげることができる。
 午後四時四十四分、埼玉県南部に位置する停留所「緋の町」でバスを下車したのは杏菜ひとりだった。町といっても「緋の町」は住所名ではない。居住している人間たちが勝手に自称している「町」だという。
 標識もベンチも錆ついたバス停は、古びた民家に囲まれていた。バスが走ってきた北方向には砂上に遊具だけがぽつんと取り残された公園が見える。携帯で地図を確認しようとした瞬間、杏菜の耳にせせらぎを乗せた南風が届いた。
 速足で南の狭い車道に出ると一気に視界が開け、せせらぎを轟きへと変じた巨大な川が現れた。
 その上に架かっている橋の欄干が、輝く血のように赤い。
 これが、緋の橋。
 蓮を誘拐したと思われる犯人が引き渡しを指定した場所。
 つまり、この場所にこの世で最も愛しい人間と、最も憎い人間がいる。
 車道を渡ると杏菜はジャケットのポケットに入っているものを触って、使用方法を思い返す。使い方は簡単、襲ってきた男に先端を当ててスイッチを押すだけ。
 スタンガン。警察の手を借りないと決めた時に、杏菜が購入を決断したもの。常軌を逸した者と対峙する以上、こちら側が打てる手は武装しかない。
 あの手紙に書かれていたことは、ここに来いということ、それだけ。身代金も何も要求されていない。つまり犯人はタダで蓮を返してくれるということだ。
 当然そんなはずはない。甘い話はこの世にない。あるとしても裏に毒がある。甘ければ甘いほど苦い毒が。今までの人生でその苦さは苦しいほど味わってきた。必ず何かある。
 杏菜は緋の橋に足を踏み入れた。橋は全長約八十メートルの長さで、車は二車線、左右には確立された横幅四人分ほどの歩道がある。眼下、およそ二十メートルにある川は西の源流から東の東京湾に向かって流れが速い。駅から離れているため人通りはなく、車さえ、たまに走り去る程度。
 橋を跨いで南北に走る道路と、この「緋の川」によって十字に集落は切り裂かれている。振り向くと杏菜がバスを降りた北の堤防沿いには一棟、浮いた高層マンションのほかに人家がぽつぽつと散見された。対して川の向こう、南の堤防沿いにはびっしりと家屋が立ち並んでいる。
 そして杏菜の視点はひとりの人間に定まった。橋のちょうど中央に、誰かいる。
 男。水色のワイシャツに、色褪せたジーンズ。背にはリュックサック。
 拍子抜けして杏菜は肩を落とした。
 まず蓮がいない。返却するとあの手紙で言っておきながら、西側の歩道に男がひとり立っているだけ。
 さらに男の風貌。杏菜が橋の中央に近づけば近づくほど、男が男というより少年に近い顔立ちをしていることが分かる。まだ高校生か、白い肌に幼げで丸い目、ひょろっとした体型でガラが悪いどころかむしろいい。典型的な犯罪者がいると思っていただけに、少年の知性的な顔つきは予測とはまるで違った。
 だがここでの油断は禁物。このように大人しそうな顔をした少年がとんでもない歴史的犯罪を起こすということが近年、この国では頻繁に起こっている。逮捕されるたびに「まさか、あの子が」という言葉が親族から漏れていた。
 杏菜がもう一度スタンガンをそっと服の上から撫でた時、少年は杏菜の存在に気づいた。こちらを直視している。
 この少年が、犯人かもしれない。
 杏菜は顎を上げて、アイシャドウで強化した眼光を尖らせた。負けるつもりはない、負けるような並の女ではないと少年に威嚇を放った。
 毒々しいパ―プルを上着から照射して、ぎらつく白のスキニーパンツで闊歩する杏菜が近づいたところで、少年は口を開いた。
「あの、すみません」
 高音の声に毒毛を抜かれたが、杏菜はさらに距離を詰めて唇の真紅を解き放った。
「蓮はどこ?」
 荒げた声に少年がひるむ。杏菜は少年の眼前まで近づいても怒気を消さない。
「なんなの、あの手紙? アナタが出したんでしょう?」
 少年は点になった目を惑う魚のように泳がせていた。
 何か違う、とここで杏菜も気づく。

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