第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み スタンドアローン

「あのダムは百年もつって話だったのにな。全員退去してから三十五年。ダムができてから三十年くらいしかたってないぞ。なのにもう撤去かよ」
 為井が空気を変えようとしたのだろうか、ダムの話を空中に放り投げた。そのボールを中河原がキャッチする。
「だがあのダムは、下流の古手川町などに大きな恩恵をもたらしたはずだ。当時は洪水や土砂崩れもよく起きていたしな。人口も増えていって水不足になることは容易に想像できた。治水も利水も兼ねた多目的ダムは、一応は感謝されたんじゃないかな」
「何だよ中河原はダム肯定派か? 故郷を追い出された挙げ句、ダムの底に沈められた俺たち村民には何の恩恵もなくて、下流の町や都会には恩恵だらけなんだぞ」
 やや興奮気味な為井の手を東条がテーブルの上でつかんだ。
「ワンフォアオール、オールフォアワンよ!」
 東条のつぶらな瞳に見つめられたいまだに独身の為井は、たるんだ頬を赤く染めていた。為井は手をなかなか離さずに、東条は力ずくで手を離していた。
 ノブは、注文しておいた紹興酒を店員から受け取り、グラスを配りながら改めて自分は何も知らなかった撤去について問うてみた。
「さっきの話だと、入江水ダムが撤去されることで、水没した入江水村が戻ってくるとか言っていたが本当か?」
 周りに比べれば酔いが浅いであろう中河原が答えた。
「いや、戻ってくるというのは語弊がある言い方だが……ダムがなくなることでそこにまた家が建って人が住むわけじゃない。結果は何も変わらない。ただこうして集まるきっかけに向島先生が選んだのだろう、というだけだ。まあ数年後ダムの撤去が完全に済んだら、ノブがそこに土地を買って済むのは勝手だろうがな」
 中河原の眼鏡の奥が光る。きっと彼なりの渾身のギャグなのだろう。「そんなところ住むか!」ともツッコミにくいし、「そうだな住んじゃおうかな」ともノリにくくてノブは苦笑いするしかできなかった。そんな闇を光で引き裂いたのは為井だった。
「俺聞いたぞ! なんでも今年は全国的な水不足になるらしい。雨が降らずに全国のダムで貯水率が下がっているみたいだ。入江水ダムも例外ではないようだぞ。あのダムは今まで一回も渇水になったことがないが、今年はさすがに渇水になるそうだ」
 さっきまでの酔いはどこへ行ったのかだろうか。急に垂れていた眉毛をつりあげた為井だが、彼が何を言いたいのか分からず、ノブはただ真顔で見つめていた。為井は続ける。
「ダム湖の貯水率がゼロパーセントはさすがにないだろうが、もしかしたら撤去の工事が始まる前に、入江水村に入れるかもしれないぜ。最初で最後のチャンスだ」
「ど、どういうことだ?」ノブは聞き返す。ダムについて全く知識のないノブは、為井の放つ言葉のエッセンスを理解できなかった。いつのまにか東条は別の席に移っていた。中河原が眼鏡をくいと上げて付け足す。
「つまりだ。ダム湖の底に沈んだ俺たちの故郷、入江水村は当然入れない。水の底だからだ。だがダムの撤去が決まった今なら入れるか? いや結局ダム湖に水が溜まっているから入れない。撤去工事が始まったら入れるか? いや確かに水は抜かれるがその段階で業者に管理されて一般人は入れなくなる。俺たちは撤去工事が完全に終わる数年後にしか故郷の地を踏めない。オッケー?」
 ノブは指でOKサインを作った。中河原は続ける。
「だがこの夏、知っての通り全然雨が降っていない。ミネラルウォーターの値段が上がってるのは知ってるだろ? 何十年に一度のレベルの水不足だ。入江水ダムの水が枯れる。そして撤去工事はまだ始まっていない。つまりこの夏の渇水時期に入江水へ行こうぜってことさ。そうだろ為井」
 為井が取れそうなほど首を縦に振る中、ノブはまだ同じテーブルの二人の温度についていけていなかった。
「こんなこと言ったら冷たいかもしれないけど、行ってどうするんだ? そんなに行きたいなら数年後撤去工事が終わった後でもーー」
「おいノブ!」
 為井ではなく、あの冷静な中河原が声を荒げた。
「な、なんだよ」ノブはたじろいだ。
「まさか忘れたのか。俺たちの遺産を」
 埃が溜まるほど眉間にシワを寄せてノブは為井を見た。為井もノブと同じくらい眉間にシワを寄せている。為井は勢い良く紹興酒を飲み干し、ノブを捲し立てる。
「おいノブ! 忘れたとは言わせないぞ。俺たちの遺産を。それを掘り起こすチャンスは今しかないんだ。撤去工事が始まったらきっとその工事で掘り起こされちまう。つまりこの夏、入江水ダム初の渇水時期しか掘り起こすチャンスはないってことだ!」
 為井の渾身のしてやったり顔を拝まされたノブは、渇いていた自分の脳にお湯が注がれた気分だった。ダムの放水のように、小さな穴から一気に思い出が噴き出してくる。
「タイムカプセル!」
 ノブは無意識に最適解を口にしていた。中河原と為井は笑顔で親指を立てていた。
「俺たちが入江水を出る前に、雪乃先生と埋めたタイムカプセルは今は水の中だ。今までずっとダム湖に眠っていた。でもこの夏は違う。撤去工事は来年には始まる。今しかチャンスはない。掘りに行こうぜ!」
「行こう!」「俺たちの思い出を取り戻そう!」
 たった三人だけの男の雄叫びがテーブルの上でこだました。
「本当は芥川も連れて行きたかったけどな。天国にいるんじゃ仕方ねえ」
「芥川のためにも是非行こう」
 なんてワクワクするんだろう。子供から大人になったのではない。社会に巻き込まれて子供でいることが恥ずかしくなっただけだ。いつだって俺は俺だ、とノブの心は躍動していた。
 ノブ、中河原、為井は、紹興酒の入った小グラスで乾杯した。

つづく

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