第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み スタンドアローン

『スタンドアローン』

鎹ミト(かすがい・みと)33歳
1986年生まれ。会社員。


 第1章 ホウムタウン

 1

 みそ汁の匂いで目が覚めた。
 アラームが鳴る前に目覚まし時計のスイッチを止めたのは何年ぶりだろうか。視界が定まらない中、清美と同棲したばかりの頃を思い出した。あの頃は二十平米の1Kに住んでいたから、清美が朝飯を作る音や匂いで嫌でも目が覚めたものだ。ここに引っ越してからは滅多にないことだった。
 意識や視界がハッキリしてきた。ノブは自分が昨晩ソファで寝てしまっていたことに気が付いた。首や腰が痛い。奮発してハイバックで尻が沈むほどやわらかな革張りのソファを購入したのだが、寝るのには適していなかったようだ。
 ノブは沼から這い出すように体をひねって起き上がりながら、視線をキッチンへと送った。見覚えのない背中が小刻みに縦に揺れている。リビングからはカウンターテーブルのせいで上半身しか見えない。包丁がリズミカルに音を奏でていた。その早さから切られている物はネギだろう。その横では、鼻孔をくすぐった張本人である鍋が火にかけられて湯気を出していた。
「清美?」
 ノブは無意識のうちに死んだはずの妻の名を声にしていた。
「あら。おはようございます」
 振り返ったエプロン姿のずんぐりとした女性は、あの頃の清美を丁度二倍にしたくらいの風体だった。だがノブはすぐに気づいた。脇坂だ。昨日から雇っている四十五歳の主婦がなぜか我が家のキッチンに立っていた。
「どうしてここに」
 脇坂はコンロの火を止めて、濡れた手をエプロンで拭きながらリビングへと出てきた。
「開店時間になってもいらっしゃらなかったので、勝手に入ってしまいました」
「あ、それはすいません」とノブは時計を見た。確かに自身がオーナーをするクリーニング店の開店時間の十時を三十分も過ぎていた。
「朝ごはん食べます?」
 家政婦を雇ったつもりはないのだが、やもめ暮らしのノブにはありがたかった。
「はい。ありがとうございます」ノブはリビングに設置された四人がけのテーブルに着席した。目の前に敷かれている青のランチョンマットの上にみそ汁の入ったお椀が置かれた。向かい側にはピンク色のランチョンマットが敷かれている。
 ノブは、山積された質問をすべてみそ汁と一緒に飲み込んだ。鍵がかかっていたはずなのにどうやって入ったのか、勝手に入る前にまず電話連絡するべきではないのか、そしてなぜ朝食を勝手に作っているのか。
「電話したんですけどお出にならなくて、お店の裏に回ったら『宅配やその他用事はこちらへ』と玄関に貼ってあったのでチャイムを押したんですけど、それも反応がなくて勝手に上がってしまいました。そうするとソファで寝てらしたので起こすのは悪いと思いまして……先週の面接のときに最近コンビニ弁当ばかりだとおっしゃっていたので勝手に作ってしまいました。すいません」
 ノブは激しく首を横に振った。
「何から何まですいません。明日からはちゃんと起きます」

 駆け落ちのような状態で二十歳のときに清美と結婚し、すぐに桃子を天から授かった。そこからは家族を守るのに必死でよく覚えていない。
 桃子が高校生のときに、学校を辞めたい、と悩んでいると清美から相談を受けたことは覚えている。でもその結果がどうなったかを気にしたことはなかった。娘が不登校になっていることすら知らなかった。平日は夜中まで仕事。土日はゴルフ。病床に伏せて入退院を繰り返していた清美が、次第に入院し続けるようになり、ほとんど話せなくなるまで余命宣告なんてドラマの中だけの大げさな話だと思っていた。その間も桃子は学校へ行かず、毎日病院へ行っていたそうだ。ノブはもちろん家族を愛していたし、将来のために必死だった。しかし何も見えていなかった。二年前に清美が他界し、その翌年に桃子が家に帰らなくなった。桃子の行き先に心当たりがないか、何か抱えていた悩みはないかとの警察の質問に一切答えられず「本当にお父さんですか?」とまで言われた。
 結局桃子は男と住んでいることが分かったので今は安心している。父と離れたかったのだろう。
 清美と結婚してから二十五年。二年前に会社も辞めて、貯めていたわずかなお金と退職金でクリーニング店を開いた。稼ぎは少ないが、妻や娘がいた時の失われた時間を取り戻そうとしていたのかもしれない。償いなのか、清算なのかはわからない。

「店長! 店長!」
 久々の味噌汁の香りのせいで、お椀を片手に持ったまま回想にふけっていたノブの肩を脇坂が叩いた。
「ん? あ、すいません。何か色々思い出しちゃって」
 いつの間にかご飯や焼き鮭、ほうれん草のお浸しまでが目の前に並べられていた。
「家庭の味が恋しくなったらまた言ってください。いつでも作りますから」
「ありがとうございます」
「でも私、一応人妻ですからね」と脇坂は薬指の指輪を掲げた。
 ノブは頭をかきながら軽くお辞儀をした。きっとすごく不自然な作り笑顔になっていることだろう。
「いただきます」
 ノブは両手をあわせる。
 いただきますなんて言ったのはどれくらいぶりだろうか。孤独だった渇いた時間を潤すように、みそ汁がノブの体に沁み込んでいった。

 クリーニング屋は土日が稼ぎ時のため、ノブは木曜日を休みにしていた。
 ノブは寝起きの乱れた髪の毛のまま、コーヒーをすすってニュースに悲喜交々としていた。中年になるとどうも社会情勢が気になって、ああだこうだと考えてしまう。会社に勤めていた頃は、受け売りの知識を部下にぶつけ、自分の若いころを棚に上げ、近頃の若者はだめだと説教をすることもあった。ゆとり世代だなんだと言うこともあったが、生活が落ち着いた今あのころを振り返ると胸が苦しくなる。自分だって若いころは新成人だと言われて大人たちに腹が立っていたじゃないか。
 休みの日以外は、仕事を終えるのは毎晩九時過ぎになる。クリーニング店のシャッターを閉めて、レジ締め作業を済ませ、一階の店舗から自宅である二階に戻るのがルーチンだ。毎朝満員電車でおしくら饅頭をし、毎晩帰りの電車で酒臭いおじさんの息をかけられずに済むと思えば、なんて楽なんだと思えた。
 今日も仕事を終え、階段をあがって自宅へと戻っていく。ふと階段の途中で腕時計を見た。時刻は夜の八時。レジ締めの誤差もなく、客も少なかったから珍しく早く終えることができた。
 ポストから封筒を取り出す。広告や請求書ではないようだ。
 入江水(いりえみず)小学校ーー同窓会のお知らせ、と筆で書かれていた。ノブは着替えも忘れてソファに腰を下ろす。ノブにとって小学校は中高と違って特別な存在だ。大きく息を吸って封筒を開けた。

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