第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 本能寺の変オブ・ザ・デッド

 犬の糞で敵を討つ

 幅四メートルの水堀と、高さ八メートルの筋塀に四方をまもられた一万平方メートル超の敷地にそびえたつ寺院であり、織田信長の御座所でもある本能寺は、落成してよりまだ一年ほどの新築である。
 本能寺を気にいった信長は京の御座所にさだめ、京都所司代の村井春長軒に普請を命じた。付近の建物を余所に移転せしめるなどし、ねんいりに一年もの時をかけ、天下人にふさわしい豪華絢爛で城塞のごとき御座所を落成せしめた。
 正門に当たる大手門、堅固な樫に金銀で装飾をほどこした豪華な南門をくぐり、最初に目にとびこんでくるは王者南面、表御堂。表御堂と渡廊下でつながる瓦葺建物群の御殿、客殿、僧房、台所、宝殿はいずれおとらず最新技術と文化を融合させた新奇なるつくりで、じつに贅をつくしている。
 南門より表御堂にむかって右手に見えるのが馬をやすませる厩舎。その裏には下々の者がつかう東浄や井戸がある。左手に見えるのは僧堂。有事にそなえた搦手門は北に位置し、目立たぬよう小口で頑強な鉄門で三重に守られていた。
 そんな鉄壁の要塞のごとき本能寺で、事件はおきた。
 天正十年六月一日、戌四つ、すなわち夜八時半ごろ。
 朔月の黒天であるが、ところどころに篝火がたかれ、寺内はあかるい。太陽が月に喰われる日蝕があったせいであろうか、そうぞうしい不穏な夜であった。
 蚊や蠅がブンブンわき、蝉がジイジイ鳴きつづけ、さらにそうぞうしく寺内外に蝦蟇蛙があつまり、ゲエゲエ鳴く。なまぬるい風が木々をゆらし、葉ずれの音をザワザワひびかせる。鴉がときおりガアガア鳴いては、仲間を木々によびよせる。
 風にゆれる葉の天蓋の下、疾走する黒い影がひとつ。
 うなり声をあげている。手燭をにぎる手はふるえ、ひたいに脂汗がにじんでいる。
 永楽銭の紋がほどこされた真紅の小袖――永楽衆と称される信長の小姓衆がひとり、菅谷角蔵。齢十六と稚気のこる顔貌であるが、いまや必死の形相である。
 ぬかるみに足をとられながら、かけこんだのは東浄――すなわちトイレ。
 厩舎の裏手、百平方メートル余の集団便所がある。二か所に設置された入口は引戸。個室は左右を木板でくぎられ、土間にほられた穴に素焼の便壺がおかれている。便壺は当番が清掃する。収集した便は近隣の百姓に売ることで、寺の収益源となっている。
 ちなみに螺鈿で家紋がほどこされた紫檀の桶箱におとされる信長のソレは、凡人のソレの十倍の高値であきないされている。武田の水洗便所が有名で、本能寺を普請した春長軒は負けじと水洗便所を提案したが、「糞は金子にかえるもの」と、信長はゆるさなかった。
 角蔵は一番手前の個室にとびこみ、ふんどしをかきほどき、自慢の着物をはためかせ、ガバと便壺にまたがる。僧であるなら便壺にむかって経の詠唱をもとめられるが、武士であるし、なによりいまは余裕がない。しめり気をおびた破裂音とともに、小便とも糞便とも判断つかぬ排泄物を一気呵成にぶちまける。のどの奥にしつこくからむ痰を吐きだせば、臓腑の栓が抜けたようで、すさまじい量の嘔吐物がゴボゴボあふれだす。
 吐瀉物が手燭にかかり、あかりがジュッと音を立ててきえ、東浄は暗闇につつまれる。
 激痛、吐気、そしてたえがたい悪臭――無間の吐瀉物地獄である。さりとて――父上、俺はやりましたぞ――角蔵は満面の笑みをたたえ、両こぶしをにぎりしめ、心中でさけぶ。
 これで弥助は切腹よ――一年前、伴天連から贈呈された黒人奴隷ヤスフェに、信長は名をあたえ、小姓衆にとりたてた。それが弥助である。奴隷から士分をえる異例の大出世であるが、永楽衆は良家の子息がつどう選民集団。序列にうるさいこと、このうえない。
 ――永楽衆の筆頭は森乱丸。これはうごかない。
 小姓とは名ばかりで、いまや五万石の金山を拝領する大名である。武芸も学問も美貌も万全にて、どこにも不備が見あたらない。乱丸とはじめて出会ったとき、感動と絶望が波濤のように押しよせ、角蔵は丸三日ねむれず、しばらく鏡をみることをおこたった。
 ――次席は高橋虎松。これもうごかせない。
 胆力があり、武芸に秀でている。血統はたいしたことないが、実力主義で武芸数奇の信長の寵愛を受け、知行をえている。御狂、すなわち信長が愛好する疑似いくさ遊戯のさなか、小枝で頭をかち割られた苦痛と恐怖で、角蔵は丸二日ねむれなかった。
 ――三番手。ここはおれ、菅谷角蔵さまでなくてはならない。
 しかし、どうやらここに弥助がいる。体力だけの黒奴ふぜいに、なにゆえ出しぬかれる。「弥助のすえは大名」とのうわさを聞いたとき、七日間眠れず、怒髪天をついていた。
 角蔵の父は名誉ある織田信長馬廻衆の指揮官がひとり、菅谷長頼。角蔵はその権勢と金子に物をいわせ、弥助の周辺をあらった。南蛮寺に出入りする信者を買収したところ、弥助の尻尾をつかんだ。角蔵はつかんだ尻尾はにぎったまま、周到に機会をまった。
 そして一刻前、ついに――ふいに――躰がゾクゾクふるえはじめる。涙と鼻汁があふれでる。全身の関節が、ギシギシいたみはじめる。
 立ちあがろうとして、角蔵の背筋がこおりつく。シュルリと、尻になにか。
 おそるおそる頭をさげて股間をのぞく。地べたにおいた便壺のうえには、おのれの金玉のほか、なにも見えない。いまのは、なんだ。尻から、なにやら、出てきたような。
 おそるおそる手をのばして尻にふれる。なにもない――が、尻穴が縦一文字に裂けている。なんじゃこれは、いつのまに……だが、ひどい傷なのに痛くない。ただれるように裂けているのに、ふれても痛みはなく、それどころかふれた感覚もない。
 突然、腹がゴボゴボとはげしく波をうつ。長くてくさいゲップがもれる。眼窩からこぼれた大量の涙は納豆のごとく糸をひき、眼球があぶられるように熱くなる――またたくまに視界がどぶろく色に白濁しはじめ、なにもみえなくなる。
「クソガッ」罵声が口をつくと同時、ブビッとながい屁が噴出する。
「はははっ、クソに憤怒されるとはめずらしい」遠慮のない、おおきな笑い声がひびく。
「ダレダッ」奇妙な発声で、角蔵は激怒する。
「その声、角蔵どのですな。上から下まで、にぎやかでございますな」
 声のぬしは久々利亀。
 齢十五、斎藤家より織田家にくだり、いまでは森家につかえる久々利城の城主、久々利頼興の一族である。いちばんはなれた奥の個室で便壺にまたがっている。

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