第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 静かに眠るドリュアデスの森で

 〈2〉ラベンダー

 幼少期、ある実験を行った。
 菊の鉢植えを二鉢用意し、まったく同じ環境下に置く。一方の菊には毎日優しく声をかけて葉や茎を撫でながら水をやり、もう一方の菊には無言で機械的に水をやる。
 菊の成長度には如実に違いが出てくるのである。早期に花を咲かせるのは前者であり、後者は何日か遅れて花が咲く。陽当たりや容器ほか、細部の環境を同じにしたとしても、何度やっても、どうやっても結果は変わらなかった。
 ――不思議だろう?
 教えられたとおりに菊を育てた結果を伝えると、祖父は歯を見せて笑って言った。
 ――彼らは人の言葉がわかるのさ。
 菊花でも、ほかの花でも、茄子や胡瓜だって変わらない。植物には心があって、人の言葉が通じていて、優しくしてやるとよく育つんだよ、と。花卉栽培農家を営んでいた大樹の祖父は、花の蕾で彩れた畑のなかでそう言っていた。
 無論、子供向けの戯れ言だったのだと今は理解している。むしろ外部刺激は植物の生長を抑制し、開花自体は早まるのでよく育ったように見えるのだと。
 だが、多分な影響を受けたのは事実だろう。祖父が他界し、農地を売り払ったあとにも幼い日の思い出として残っていた祖父の言葉は、高校時代、進路選択の指針となった。
 植物学を学びたいという大樹の志望に、父はいい顔をしなかった。農地を手放して園芸店を構えた苦労人の父親は、現実というものを知っていた。さりとて優秀な成績を背景に担任からも進学を推されては、一徹な父も折れざるを得ない。最後は仕方なく頷いて、不肖の息子を遠方に送り出してくれた。
 親元を離れた下宿先での生活は、順調だったと言える。農学部一年の終わりには大学院進学を目標に設定し、三年時には卒業論文の概略が決まった。研究室の選択も希望が通り、何もなければそのまま院に進んでいたかもしれない。方向性を見失ったのは、卒論予定の概略をまとめ、研究室の指導教員に見せたときだった。
 自信があった。称賛されるのではないかと。
 ところが、指導教員たる教授からの見解は、期待を裏切るものだった。浩瀚な蔵書が積まれた机で指を組んだ教授は、目尻に深いしわを刻んでこう言った。
「面白いが、夏休みの自由研究の域を出ていない」
 赤面したのは言うまでもない。
 大樹が手をつけようとしていた卒業研究は、植物の思考、感情の有無に言及した、幼心に残る祖父の戯れ言を、難解な語句を並べて形にしようとしたものでしかなかった。それを子供騙しで稚拙だと断じられたのだ。教授に諭され、大樹はようやく自分の幼さを思い知った。井のなかの蛙が映し鏡と対面させられた気分だった。
 卒業研究は別のテーマに変更され、無難に完成させることはできた。が、院に進んで研究を続ける気にはなれなくなった。であれば、就職するほかはない。
 希望していたのは植物園。しかし修士課程すら経ていない人間に学芸員など望むべくもなく、当初は就職を考えていなかったせいで就活は遅れに遅れ、目標を失い身を置く場所が決まらぬまま卒業し、既卒での職探しもうまくいかなかった。
 結局、故郷に戻ってきたのが今年初めのことだった。就職したのは株式会社草壁商会。就職したと言えば聞こえはいいが、要は家業の手伝いである。
「別にいいんだけどね……」
 大樹は独りごち、フラワーショップ・ドリュアデスのシャッターを力任せに引き上げた。時刻は午前十時過ぎ。日に焼けて色合いが薄くなってきているひさしを見上げ、欠伸を噛み殺して箒を手にする。
 店先を箒で掃いていると、店のなかから父、竹治《たけはる》が声を投げつけてきた。
「それで、おまえこの先どうするんだ」
 またその話か。大樹は箒を手にしたまま肩を落とす。
「決めてない」
「大学出てもう一年だぞ。いつまでフラフラしてんだ」
「今こうして働いてるでしょうが」
「この町で一生終わるのか。こんな店、いつ畳むのかわからんぞ」
 答えられなかった。
 実家で働きたくはなかったが、今は将来のことを考えられない。考えたくない。行き詰まったような感覚がわだかまっていた。
「だからあのとき、農協入れって言ったんだ」
 ぶつくさ文句を垂れる父を無視して、集めた砂埃を塵取りに掃き入れる。頭髪に白いものが混じり始めた父親は、それでも口を閉じようとしなかった。
「学者様なんざ、そうそうなれるかよ。農業学かなんだか知らんが夢見たって」
「植物学な」
 箒と塵取りを片付け、店内によけてあったブリキバケツと鉢植えをファサードの什器に並べる。鉢植えに水やりをして店のなかに戻った大樹は、ひそかにため息をついた。
 土地の余っている田舎ということもあって、フラワーショップ・ドリュアデスの店内は奥行きがあり広い。大小の鉢花が什器に並び、別の棚には作り置きのアレンジ花、奥には培養土の袋が積み上げられている。ドリュアデスは園芸生花の総合店であり、商談用の丸テーブル脇にはいくつかの観葉植物、数種類の空のプランターも商品として置いてある。
 壁際のフラワーキーパーには切り花。これを用意するのに手間がかかる。
「おい、早くしろよ。花が傷むだろ」
 後方から父の叱責が飛ぶ。
 大樹は生返事をしつつ作業台の前に立ち、花桃の枝の先端を金槌で叩いた。腰のシザーケースから取り出した剪定鋏で、枝の先端に十字の切り込みを入れていく。それを展示用の細長いブリキバケツに放り込み、花桃の水揚げが終わると次はガーベラを手に取った。
 仕入れ時期や花の種類によって、水揚げ方法はまちまちだ。ガーベラには水切りが好ましい。手にしたガーベラの茎を数センチ水に浸け、水中で刃を入れる。吸水できる断面積が広くなるよう斜めに裁断し、ブリキバケツごとキーパー内に展示した。
「水の入れ替えもしとけよ。配達入ってるのも知ってるよな」
「はいはいはい……。覚えてるよ」
 口うるさい父から逃げるように黒板スタンドを持ち上げ、大樹は背中越しにふと言った。
「なあ親父」
「店じゃ社長だろ」
「はい社長。あのさ、幽霊って信じる?」
 昨日森覚寺で見た、樹間の白い影が頭から離れなかった。時間が経てば経つほど記憶も薄れがちになり、現実だったかどうかも曖昧で覚束ない。
「なに寝ぼけてんだ。グリーン届けるの、忘れんなよ」
 観葉植物などの葉物を、グリーンという。
「なんで俺ばっかり配達させられるの」
「配達しなきゃ、おまえの存在意義ないだろうが」
 にべもない。

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