第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 静かに眠るドリュアデスの森で

『静かに眠るドリュアデスの森で』

冴内城人(さえうち・しろひと)47歳
1973年、愛知県生まれ。専門学校卒。会社員。


 〈1〉序

 最初それを見たとき、木の精霊だと思った。
 視界の端に一瞬映った不鮮明な白いそれは、夕闇で濃紺に滲む防風林の奥へ、溶けるように逃げるように消えていった。しばらく樹間を凝視していても、二度とその姿を目にすることはできなかった。
「おい、どうした」
 草壁大樹(くさかべ・たいき)は目をこすり、後ろからの呼びかけに振り返った。
「和尚さん。今、そこに何かいなかった?」
「何かってなんだよ」
「白い……、妖精とか……幽霊みたいな」
「幽霊って、ここ寺だぞ」
 呆れたように答えた和尚は白い坊主頭をひと撫でして、安っぽい眼鏡をかけ直した。
 この森覚寺の現住持職、通称が和尚。実際には厳めしい法名があるのだろうが、近隣の住民は皆そう呼んでいるし、大樹も幼い頃からそう呼んでいる。
「仏教って、幽霊否定派なんだっけ」
「否定派じゃあない。寺なんだから、仏さんはみんな成仏しとるよ。そもそも霊の存在は無記といって」
「はいはい、説教はまた明日。話、戻そう。こいつの話でしょう」
 大樹は意識を切り替えて、目の前の巨木を仰ぎ見た。
 運良くなのか悪くなのか天然記念物指定を外れ、ほぼ無管理で森覚寺の敷地内に聳立する針葉樹の巨木、推定樹齢三百五十年以上の檜である。配達で仏花を届けた際、和尚にどうしてもと頼まれて見にきたのだが。
「もう暗いし見えないね。葉っぱが黄色くなってるって?」
「枯れかかってるってイチャモンつけられたんだよ。なんか昼間に訪ねてきた、なんとかいうところのなんとかってやつに」
「どこの誰なのか何ひとつわからないけど、針葉樹は数年ごとに古い葉が枯れて入れ替わるから、枯れかかってるように見えることはあるよ。というか俺、専門じゃないし」
「なんで。そういう勉強大学でしてきたんだろ?」
「はい、これ読んで」
 大樹は掛けているエプロンを指さした。
「フラワーショップ、ドリュアデス。専門じゃないか」
「花屋の専門じゃないでしょう。こういうのは樹木医に診せたら?」
「じゅも、何?」
「樹木医、木のお医者さん。造園業者とかに資格持ってる人いるだろうから」
「でも、金かかるだろう」
「そりゃかかるよ」
 言って、大樹は巨木に手を触れる。
 幹周は六メートルほど、直幹型で幹高は三十メートルに近い。真下から見上げても梢に遮られ樹芯はうかがい知れず、周りの防風林に交わることなく、あたかも近辺の木々を統べる王であるかのように君臨している。
 ただ、その巨躯には衰退の兆しがあり、樹勢が盛んであるとは言えない。樹皮もところどころ剥がれかかっているのが見て取れた。
「ここ、誰かわざと剥がしたんじゃないの。表皮がべりっといってるけど」
「どこよ」
「ほら、ここのところ」
 和尚に教えようとして気がついた。大檜の根本、樹皮が剥がれている部分に小さな黒い点がある。屈んで触れてみると、樹皮が剥がれた跡に窪みができていた。五ミリ程度のわずかな窪み。内樹皮が顔を出してしまっている。
 自然にこうなるとは考えにくい。人の手で、刃物か何かで削り出そうとしたような。
「ありゃ、傷ができてるじゃないか」
 和尚も気がつき、作務衣をたくし上げて覗き込んだ。
「悪戯しやがったの誰だ。仏罰が当たるぞ」
「この木、そんなご大層なもんじゃないでしょ。だいたい、これ何?」
 大樹は立ち上がり、檜の脇にある立て札を手ではたいた。
「檜の霊樹って書いてあるんだけど。八百比丘尼が植えた霊験あらたかって、説明書きも嘘っぱちだし」
 霊樹ではなく〝お化けヒノキ〟だ。近くに住む者なら誰もが知っている。風が強く吹く日には、檜が嘆き悲しむように哭くことも。
「お化けヒノキじゃ観光客喜ばないだろ。近頃はパワースポットってのが流行ってるんだよ。こう、霊力が宿ってるって情報を流してやってだな」
「こんな田舎町、観光客なんて来やしないよ」
「いや来るんだって。ブログに地元で有名とか書いといてやると、若い子がパワースポット巡りにやってきたりな。おまえさんとこの店だって、観光客来たら潤うだろ」
「まるきり嘘じゃないの」
「嘘じゃねえよ、方便だ」
 大樹は聞こえよがしに疲れた息を吐き出した。首を反らして巨木を見上げる。今日は微風しか吹いていない。お化けヒノキの哭き声は聴けないようだ。
「檜の寿命は千年以上って話だから、まだ大丈夫なんじゃないの」
「でも、わからないんだろ? 枯れちまうのかねえ」
 肥えた腹をさする和尚の声音は、やや寂しさを含んでいた。幼い頃から慣れ親しんだ巨木が枯れてしまうとなると、大樹にとっても寂しくはある。けれど、こればかりはどうにもならない。哭かないお化けヒノキもまた、今日はうら寂しそうではあった。
「早いとこ樹木医に診せたほうがいい。じゃ、もう行くよ」
「なんだター坊、もう帰るのか。うちでカカアの不味い飯食ってくか」
「やめとく。あと、ター坊やめて。もう子供じゃないんだから」
 和尚に断り、大樹はお化けヒノキをあとにした。
 山門脇にある通用口を抜け、石造りの階段を数歩で下りる。砂利が敷き詰められた森覚寺の駐車場に入ってスマートキーのスイッチを押すと、停めてあるワンボックス車から発信音が返った。
 派手な花の絵柄と『フラワーショップ・ドリュアデス』のロゴ。店の商用車である。
 運転席に乗り込んで一息。時刻は午後七時をとうに過ぎ、今から戻ってもとっくに店じまいが終わっている頃だろう。
 夜の緞帳が下りる前方をヘッドライトで照らしつつ、大樹は車を発進させた。防風林を横に舗装された車道をひた走る。
「目の錯覚……」
 なんだろうか。枯れかかっているという檜も気にはなる。が、それよりも。
 樹間に消えた白い影が気にかかる。
 錯覚のようにも思えるし、違うようにも思える。
 洗濯物が夜風に吹かれて飛んできたというのではない。一瞬ではあったが、四肢のある人形(ひとがた)に見えた。今の時間に森覚寺にいるのは、和尚とその奥方、老齢の母親だけ。そのなかで、寺を囲繞する防風林を彷徨い歩く人間などいるはずがない。
 賊が忍び込んだ、というのもしっくりこない。
 あの人影は、まるで。
「とっ」
 大樹はブレーキを踏み込んだ。舗道を焦がすような勢いで車が止まると、サイドブレーキを引いて外に飛び出す。
 見えた。確かに見えた。森覚寺の敷地で見た白い何か。やはり視界の端で、やはり木々の間に溶けるように霞んで消えた。
 車道脇の防風林は、寺の裏手と繋がっているはず。戦時中に罹災して後年植樹されたという杉が林立する暗がりは、もはやほとんど人の手が入らず、植物が繁茂し放題で自然の森のようになっている。
「誰だ」
 応じる者はない。
 大樹はアイドリングする車にいったん戻り、常備してある懐中電灯を強く握った。街灯の少ない田舎町の必需品だ。
「よし」
 覚悟を決め、漆黒の防風林に踏み入った。
 四月初旬だというのに、針葉樹林のなかは肌寒かった。堆積した落葉を踏みつけるたびに湿った音が闇に響き、樹木の支配する静けさに割り込んだ闖入者の存在を際立たせる。水分の多い空気と渾然となった緑の匂い。懐中電灯に反射した夜露が鈍い光を放つその光景は、玲瓏としていてある意味幻想的だった。
 誰もいない。見つからない。
 静かだった。人っ子ひとりいないどころか、木々も小動物も葉裏に隠れる昆虫も、寝静まっているかのように深閑としている。
「誰かいるのか」
 二度目の誰何にも、当然のごとく答えは返らなかった。
 垣間見た白い影。それを大樹が賊のような凶漢に思えなかったのは、弱々しく感じたからだ。儚く、どこか寂しげで物悲しい。直感ではあるが、そう感じた。
 幽霊でもない。大学を卒業して一年、幽霊に怯えもしなければ信じる年齢ではない。
 では、それなら。自らのエプロンに目を落とす。
『フラワーショップ・ドリュアデス』
 ドリュアデスとは、ヘレネス神話に登場する森の精霊、ドリュアスの複数形である。狩猟と貞淑、月を司る女神アルテミスの侍女だという。
 森の精霊、ドリュアデス。
 脳裏に浮かんだ思いつきを苦笑で駆逐し、かぶりを振った大樹は踵を返した。引かれる後ろ髪を断ち切って、疲れているのかもしれないと自嘲しながら。

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