第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み クロウ・ブレイン

 その日の午後3時すこし前。怜一は、東京・市ヶ谷にある経世大学のキャンパスで、古びた4階建ての校舎を見上げていた。7号校舎は、外観からして経世大学のキャンバスでも古い方の建物だと思われた。1980年代のバブル経済の時につくられたようなセメント打ちっぱなしの外観は、いまは無残に汚れ、ひび割れている。
 3階まで階段であがる。薄暗い廊下に並ぶドアには、研究室の番号を示す薄汚れたプラスティック製のプレートが嵌め込まれていて、「313号室」はすぐに見つかった。
 ノックすると、「はい。どうぞ」と、くぐもった声がした。
 ドアを押して開けると、ウナギの寝床のような部屋に、細長いテーブルが置かれ、そこに二人の男が並んで座って、お茶を飲んでいた。奥の一人はよれたシャツで、なんだかゆるい感じがする。手前の一人は細身のストライプ入りのワイシャツをきちんと着て、厳格な感じのするやせた老人だった。
「電話をさしあげました、日本新聞社の権執印といいます。あの、烏丸先生は?」
「あ、僕だよ」
 奥のゆるい感じの男が手を挙げた。烏丸仁志。准教授だ。怜一が午前中に電話で取材を申し込んだ人で、40代の半ばに見えた。
「こちらは隣の部屋の箕輪先生だよ」
「初めまして」
 怜一は、テーブルをはさんで2人と名刺を交換した。もう一人の厳しそうな老人は無言で名刺を出した。「経世大学教授 箕輪耕」とあった。全国ウイルス学会理事とあるから、ウイルスの研究者なのだろう。
「箕輪先生と、八つ橋を食べようとしてたんだ。君、食べる?」
 烏丸は、怜一にほうじ茶を出しながら聞いた。
「いえ、結構です。きょうは、ちょっとお聞きしたいことが……」
「よかった! 八つ橋、四つしかなかったから」
 怜一は聞こえなかったふりをして、二人に対面してテーブルについた。八つ橋を食べる二人に、カラスがヒトを襲う事件が一昨年から急に増えていることを、まず説明した。タブレット端末をトートバッグから取り出し、スワイプして、いくつかの記事を見せる。
「なぜカラスが人を襲うようになったのでしょうか? どう思われます?」
「う~ん、そうだねえ」
 烏丸は、きな粉のついた両手を払いながら言った。
「一般論だけど、ヒナを抱えた親鳥は、人間が巣に近づくと攻撃的になるよ。卵を産んで、雛が卵からかえって、雛がある程度成長するまでの間ね」
「カラスの産卵時期っていつですか?」
「カラスによるけど?」
「普通のカラスですが……」
「普通のって? ホソ、フト?」
「えっ?」
「カラスについて何にも知らないの?」
「申し訳ありません。普段は気候変動とかやっているものでして…」
「そうなんだ」
 烏丸は改めて、怜一の名刺を見た。
「なるほど社会部と書いてある、科学部の記者じゃないんだ……しかし、変な苗字だねえ。なんて読むんだっけ?」
「ごんしゅういん、です」
「そうか、権執印さんは科学記者ではない。鳥についてくわしくない」
「ええ」
「そりゃ困ったな。あのさあ、カラスって普通呼ばれるのには、ハシブトガラスと、ハシボソガラスがいる。町で見かけるヤツね。カァと普通に鳴くのがフト、グワッとかギーとか、鋭く鳴くのがホソね。英語では両方クロウでいい。区別するときもあるけどさ」
 烏丸は後ろの白板にヘタな字で「Crow」と書き、「クロウ」と書き、「ハシボソガラス、ハシブトガラスなど」と書いた。
「そのほかに、カラス科に分類されるものに、ワタリガラスがいる。英語ではレイブン。ミヤマガラスがいる。英語ではルーク。ニシコクマルガラスがヨーロッパにはいる。英語ではジャックドーで、イソップ童話とかにも出てくるよ。あと、ベニハシガラスとか、カラス科にはいろいろいるけど、ここでは省こう」
 白板に解読可能性の限界に近いヨレヨレの文字が並んだ。
     カラス科(Corvidae family)
      Crow(クロウ) ハシボソガラス、ハシブトガラスなど
      Raven(レイブン) ワタリガラス
      Rook(ルーク) ミヤマガラス
       Jackdaw(ジャックドー) ニシコクマルガラス
「同じカラス科の鳥でも、英語では全く別の鳥みたいな名前で呼ぶんだ。面白いでしょう?ワタリガラスなんてデカいだけで、外見は完全にカラスなのにレイブンだよ。まあ、飛び方とか、飛んだ時の尾っぽの形とかが違うけどね。あれっ、なんの話だっけ」
「カラスの産卵期の……」
 怜一はタブレット端末でメモを取りながら言った。
「そうそう。カラスの産卵期。街で見かけるカラスでくちばしが細いハシボソガラスは3月。くちばしが太いハシブトガラスはまあ4月。で、1か月弱卵を温めれば雛が生まれる」
「というと雛が孵るのは、ホソの方で4月、フトの方で5月くらいですか」
「まあ、それよりちょっと早いくらいかなあ」
「けど、弊社のデータベースで引っかかったカラスの襲撃事件の件数は、今年は1月3件、2月3件、3月4件、4月2件で、時期的に雛が生まれる前でも多いですよ」
「襲撃事件なんて、物騒な言い方、やめてくれよ。二・二六事件じゃないんだからさぁ」
 烏丸は苦い顔をして、お茶をすすった。「カラスは悪者じゃないからね」
「先生は、お名前も烏丸だしカラスの専門家だから、カラスに愛着があるんですね」
 さっき「変な名前」と言われた意趣返しも兼ねて言った。
「まあ、毎日のように観察しているからね」
「カラスが最近、狂暴になった、とかそんな感じはないですか」
「うん、まあ……」
「はっきり言えばいいじゃないですか、烏丸先生」
 と、小さな声で言ったのは、ずっと黙っていた箕輪教授だった。

ページ: 1 2 3