第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み ダウト・イット ~Doubt It~

 薄明かりの中、駅の改札へ吸い込まれた人々の瞼は鉛を提げたように重そうだ。私は人が疎らな京浜東北根岸線のホームで電車を待っている。
 電車は少し遅延しているようだ。私の前に並ぶ中年の男がしきりに腕時計を顔に近づけて、時刻を気にしている。私はその仕草が滑稽に見えてならない。なぜなら、目線を斜め上に少しだけ向ければ、ホーム備え付けの時計があるからだ。腕を眼前までもっていく動作と、目線を斜め上に少し向ける動作、どちらの消費カロリーが低いのか? それは言わずもがなだろう。いずれにしても、普通の人からしてみれば、どちらでもよいことだろう。が、なぜ私が、そんな些細なことをいちいち気にするのかというと、私は三十六年の人生において、腕時計をしたことがないからだ。正確に言うと、殆どないからだ。殆どと、わざわざ訂正したのは、二度だけ嵌めたことがあるから。高校の入学祝いで、祖父からプレゼントされた腕時計を嵌めたのが一度目だ。腕時計を嵌めて一分くらい経過したとき、私は過呼吸のような症状に襲われた。胸が苦しくなり、息をしようとしているのだが、何かに詰まり上手く吸えない。焦れば焦るほど酸素を肺へ運搬することができないのだ。私は咄嗟に腕時計を外した。すると、過呼吸がぴたりと収まり、正常に呼吸することができた。腕時計と過呼吸の因果関係は、そのときはまだ定かでなかったのだが、アレルギーのようなものかと私は漠然と理解した。それから私は、腕時計をすることはなくなった。大学生になってから、女性と初めてのデートを迎えた際、思い切って腕時計をしてみようと思い立った。それはビジュアル的によく見せようと下心が作用したのだと思う。案の定、また過呼吸を起こしてしまった。それ以来、私は腕時計をしていない。
 そんな話は人に滅多にしないのだが、妻とまだ交際中の頃に、それを打ち明けた。当時の妻は、「不便じゃない?」と私に尋ねた。私はその問いの意図がよく理解できなかった。なぜなら、腕時計を嵌めれないことで不便だと感じたことは一度たりともないし、その発想自体がなかったからだ。私の中で腕時計とは、瀟洒なアイテムに過ぎず、時間を読みとる道具という認識がなかった。それは時間なんて腕時計がなくとも、おおむね私にはわかったからだ。また、いざとなればスマートフォンを見れば事足りるし、加えて、時間認識を腕時計に依存している人には、いささか意外かもしれないが、注意深く見れば、街中いたる処に時計が溢れている。それらを妻に話すと、それまで当たり前のように思っていた私の技量は、普通の人ではあまり持ち得ない技量なのだと、そのとき初めて知った。当時妻は、揶揄うように、デートの合間を縫って抜き打ち的に、「いま何時だ?」という質問をよくした。私は、ほぼ正確に時間を言い当てることができた。正確と言っても前後五分のあいだに収まるくらいのレベルではあるが、妻はそれを面白がっていたものだった。きっとそれは、目や耳の不自由な人が、それを補うためにその他の身体の一部が過敏になるのと同じように、もしくは人間でいう時間の概念を有さない犬や鳥のような動物が、毎日同じ時刻に同じ行動をするような原理なのだと思う。なぜ私にそんな症状があらわれたのか、いま考えてみれば、容易に想像がつく。それは幼少期の折檻によるトラウマが起因している。その出来事を思い起こすと、少々長くなるので回顧することはよそう。
 余談ではあるが、私が腕時計に対してそんな認識であったことで、困ったエピソードがひとつある。それは妻と交際前のことで、社会人になりたての頃、合コンに行ったときのことだった。初めて会ったその女は、心理テストをすると言いだし、「あなたにとって腕時計とはどんな存在?」という質問をした。男の友人たちが、「俺の相棒」だとか、「俺の宝物」だとか言っている横で、私は「不要なもの。それにとって代わるものは幾らでもある」と答えた。すると女はニタニタとした顔で、「いま答えたのは、あなたが付き合う異性に対する価値観」と得意げに告げた。途端に場は笑いに包まれた。「鹿西おまえ、誰とも付き合えねえな」「一生独身だな」と皆から嘲笑されたのだった。私は恥辱を受け赤面した。その気になれば、女の唱える定説の矛盾を衝き、論理を並べ、かつ合理的に、三十秒もあればその女を論破できるのだけれども、私はそんな衝動に蓋をして、「まいったな……」と言って頭を掻きむしり、よき友人を演じた。
 そんな思い出を頭に巡らせていると、二分遅れで電車がホームに滑りこんできた。
 ここは京浜東北根岸線の始発駅のため、当然ながら車両は無人だ。車両のドアが開き、その中へ人の波は吸い込まれていく。私もその一波となり、車両の奥へ進み長椅子シートに座った。勤務先である品川駅到着の五分前にあたる五十分間にスマートフォンのタイマー設定をして、瞼を閉じた。この五十分間の眠りが、私の不足した睡眠時間の帳尻を合わせることになる。
 推進力を感じ、電車が動きだしたのを認めた。
 ここで深い浅いは別として、いつもであれば、すっと睡魔に襲われるのだが、今日はまだ、睡魔はやってこない。それはきっと、ドアの近くに立つ若い男の電話をしている声が、気にかかるからだろう。私は少し苛立ちを覚えた。私以上に苛立っていたのは、私の隣に座る中年で、先ほどホームで私の前に並んでしきりに時刻を気にしていた男だ。その中年男は焦れた様子で「ちぇっ!」とひどく大きな舌打ちを鳴らした。電話中の若い男は、その舌打ちに呼応するように口元を手で押さえ、ひそひそと話を続ける。
 私は、ふとある疑問が頭を掠めた。なぜ電車の中で電話をしている声がこれ程までに気になるのだろうか? 同じ音量で車内にいる人どうしが喋っている分にはさほど気にならない。騒音という観点では、同じデシベルではあるのだが。私はその自問の答えを知っている。そしてそれは、私が常日頃から気にかけていることと、まさにリンクするのだ。それは、電車内で電話をする者は奇異だからだ。我々が暮らす社会では、奇異は異端であり社会に馴染まず、他者に嫌悪感を抱かせるのだ。私は私をとりまく多様な人たちから、よき人間と思われるため、この奇異こそを忌み嫌っている。
 何はともあれ、若い男の電話が終わらない限り、私に睡魔は訪れないのだろう。これではわざわざ各駅停車の京浜東北根岸線をつかっている意味が半減する。品川まで行くには、東海道線や横須賀線をつかうルートもある。そのルートであれば、二十五分も早く到着するのだが、それらの線はすでに鮨詰め状態だ。満員電車を覚悟して、家を二十五分遅く出ることもできるのだが、私はその選択肢を排除した。なぜならば、満員電車ほど地獄はないと考えているからだ。あの車両は最悪だ。車両という箱に、ぎゅうぎゅうに人間が押し込められて身体の自由を奪われる。体臭がきつい人間と密着しても、そこから逃れる術はない。また、綺麗な女性と密着しても、痴漢冤罪を回避するため、両手を吊革まで目一杯に伸ばし、それをキープしなければならない。そして、ひとたび電車が揺れると、洗濯機の中の洗濯物のように人間が掻き混ぜられる。洗濯機の中では、綿もニットもポリエステルも関係ないように、車両の中では老若男女も貧富も宗教も関係ない。まさにあの箱は豚箱だ。一般的に首都圏での平均通勤時間は一時間という。月間二十二時間、年間二百六十四時間、四十年で一万五百六十時間だ。つまりサラリーマンの生涯で換算すると、一年と二ヶ月と十五日、あの豚箱で生活をしていることになる。この時間を実刑で換算するならば、何の罪と等しいのだろうか? 善良なるサラリーマンがいったい何の罪を犯したというのだろうか? とてもじゃないが、私には耐えられない。だから私は諸々損得勘定をした上で、京浜東北根岸線を選択して、のんびり通勤している。損得勘定の中には、この五十分間の睡眠も織り込まれているのだが、若い男は電話をなお継続している。
 ややあって、若い男はようやく電話を切り、私に浅い眠りが訪れた。

つづく

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