第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み ダウト・イット ~Doubt It~

 一章

 1

 誤解を恐れずに申し上げます。社会には夥しいほどの嘘が溢れています。それは顕在化しているものもあれば、潜在化しているものもあり、実に様々です。だからといって、すべてを疑うことはできません。また、すべてを信じることもできません。ではどうすればよいのか? 共存するのです。共生するのです。仮に、この社会から嘘がなくなったとしましょう。そうなれば、我々人類は滅びることでしょう。――あっ、すみません、さすがに誇張し過ぎました。とにかく、それくらい社会に嘘が潜んでいるということを私は言いたいのです。嘘には大きく分けて三種類あります。善い嘘と、悪い嘘、そのいずれにも該当しないどうでもいい嘘。さらに中分類として、善い嘘には二種類あります。被験者にとって有益な嘘と、被験者を正す嘘です。悪い嘘にも二種類あります。被験者を貶める、あるいは被験者から何らかを搾取する嘘と、検査者が快楽を得るための嘘です。
 えっ? サプリメントのコマーシャルですか?
 くっくっく、あなた、面白い人ですね。あれはテレビ画面の隅に「個人の感想です」と、記されていますから、たとえ効き目がなくても私は、嘘とは認定していません。
 えっ? ニュースキャスターの神妙な表情ですか? 神妙な面持ちで訃報を伝えた二秒後に、スポーツコーナーで満面の笑顔で選手の活躍を伝える、その表情ですか?
 くっくっく、あなたは実に愉快な人ですね。それはですね、受け手が相手の感情を読みとって自身で解釈するものでありますから、ニュースキャスターの神妙な表情は、嘘臭いけど嘘にはあたりません。もっとシンプルに考えていただいて結構です。私が言っている嘘とは、事実とは異なる作為であり、善くも悪くも被験者を欺くことです。
 えっ? たとえばですか?
 そうですねぇ、たとえば、トランプゲームで《ダウト》ってご存じですか?
 そうです、それです。裏向けにしたカードを捨て、真偽はともかく札数を発する。それに対して相手は嘘だと思ったら、《ダウト》と宣言する。私が言う嘘とは、事実とは異なる札数を発する行為のことです。いたって単純なのです。
 えっ? 具体的にですか?
 あなた、見た目によらず、ぐいぐいきますねぇ。まあいいでしょう。私の嘘をひとつ紹介しましょう。
 えっ? これからする話も嘘じゃないかって?
 くっくっく、あなたはそうとう疑り深い人ですねぇ。これからする話は本当の実体験です。そこは信じてください。私は自分の吐いた嘘を、他者から嘘かと問われれば、正直に嘘だと答える嘘吐きなのです。それが私の流儀なのです。――それから、ひとつ断っておきますが、メモはとっていただいて結構ですが、レコードをとるのは控えてください。それでは――その前にコーヒーを注文して宜しいですか?

 *

 私は駅まで徒歩十五分と謳われたマンションから駅へと歩みを進めている。「人間とは、どんなことにも、すぐ慣れる動物である」と、ドストエフスキーは言ったそうだが、果たして、それは本当だろうか? この通勤は三年経つが、慣れるどころか、苦痛以外の何ものでもない。私はきまって睡眠が浅い。それは様々な重圧が起因しているからだと思う。たとえば、よき夫であり、よき父でなければならないといった風に、よき息子、よき兄、よき部下、よき上司、よき同僚、よき友人、よき国民、でなければならいという強迫観念が、私の双肩に重くのしかかっている。私はそのすべてに応えている。
 虚ろな意識の中、赤信号で足が止まった。
 そんな自分の行動を、ふんと鼻先で笑う。私は今なぜ立ち止まっているのだろうか? それは眼前の信号が赤だから。表層的回答であれば、その答で正解なのだろうが、私はそんな表層的なことを自問しているのではない。そもそも赤信号で、なぜ人は立ち止まらなければならないのか、その原理を問うているのだ。道幅が二メートル半のひっそりとした住宅街の十字路に、なぜ信号機など存在するのだ。経済生産活動において、非効率だと考えずに、信号機を設置した行政の意図がさっぱりわからない。一旦停止の標識でも掲げておけば事足りるだろ、と私は独りごちる。
 こんな無意味な信号機が駅まで幾つあっただろうか? 二つ? いや三つもある。
 私はひとり嘆息を洩らした。
 午前七時前、走る車はなく、人ひとりとしていない。それどころか犬やカラスすらいない住宅街の十字路で、律儀に立ち止まる自分の姿を俯瞰すると、実に滑稽だ。これはいったい何のための時間なのだろうか? こんな無駄な時間が積み上げられると、生涯でどれくらいの経済損失を生みだすことになるのだろうか? 私は無駄というものが大嫌いだ。無駄なものには一円たりとも払いたくないし、一秒たりとも費やしたくない。といっても私は決して吝嗇家というわけではない。ときに豪奢なホテルに躊躇なく泊まれば、プレミアムと名のつくビールだって購入する。私が言う無駄というのは無益と同義であり、眼前の赤信号は、まさに無益である。
 私は馬鹿らしくなり赤信号を無視して、歩みを進めた。
 信号とは国民に安全な往来を促すためのツールだと、私は理解している。ならば赤青の如何に問わず、青でも危険であれば止まり、赤でも安全が確認できれば進めばよい。それが本来の安全なる往来というものだ、と、屁理屈を頭に並べて自らの正当性を誇示する。きっと、これくらいのことは誰でもやっていることなのだろうが、ずきん、と胸が締め付けられる。その原因はおおむねわかっている――幼少期のトラウマだ。
 あの幼少期の残像が頭に浮かんだ。横断歩道の向こう側に笑顔で手を振る両親と弟がいた。幼くて信号機など目に入らなかった私は、両親と弟のもとに駈け寄ったのち、父に殴られた。「赤信号だぞ!」と烈火の如く激怒され、両頬をはたかれた。もちろん躾だとはわかっていたのだが、頬の痛みと、父への恐怖で、しくしく泣いてしまった。そのときの記憶が今もなお脳裏で生き続けている。ゆえに意識が介在しない私の身体は、こんな無益な赤信号でも立ち止まってしまう。だから、しっかりと意識を凝らし、左右をよく見、安全確認をしたうえで、私は赤信号を渡るのだ。

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