第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 常山蛇勢

 俺は三階の更衣室で制服に着替えた。ロッカーに「相田匠(あいだ・たくみ)」の表示がある。ただし着用したのは一般的な制服ではなく、上着の丈が短く、裾がジャンパー型となった活動服である。制服など着慣れていないせいか警部補の階級章がまだ新しい。三十歳でこの階級なら高卒のノンキャリとしては、まずまずの出世といえよう。それを冷めた眼差しで見ると、ふんっ、と鼻息が漏れた。
 持ってきた肩掛けかばんから携帯電話まで、すべての荷物をロッカーに入れて鍵を閉めると、俺は階段を下りて二階の留置場へ向かった。ここがこれから二十四時間、俺の仕事場となる場所だ。警察手帳は不要、武器は自分の身一つである。言うまでもなく、留置場に拳銃警棒を含む武器のたぐいを持ち込むことは出来ない。誰かが笑い話で言っていたが、使えるのは胸ポケットに差した赤黒二色のボールペンくらいのものだ。そのため万一誰かが暴れたりすれば、場内はたちまち肉弾戦となる。
「おはようっす」
 ドアを開けて事務室に入ると、相方の長山(ながやま)巡査部長がコーヒーを淹れていた。
「相田係長、おはようございます!」
 長山が軽やかにあいさつを返した。彼は今二十七歳、独身である。体格はやや小柄だが機転が利き動きは機敏だ。今春、俺がここへ異動してきてからコンビを組むようになった。もとは警備課に席を置いていたが、前年春任官してここに着任したらしい。
 ふだん事務室には日勤の勤務員が常駐している。接見や差し入れの受付もこの場所でおこなう。一方、三交替で回している留置担当員に土日祝日は関係ない。年末年始であろうがゴールデンウィークであろうが、三日に一度の割合で当番は必ず回ってくる。そしてひとたび出勤すれば、勤務は二十四時間続くのである。
 事務室の掲示板には、現在の留置場内の入房状況がわかるよう黒板が下げられている。いかにも原始的な表示方法だが、部屋ごとに二人ないし三人の割合で番号札が掛けられているのだ。番号札がすべて掛かっていれば全員在室であり、これが取り調べなどで出房すると、その都度番号札の上に取り調べ札が掛けられるのである。
 ちなみに場内では、個人名ではなく番号で呼ばれる。そのための個人番号は、この番号札で統一されるのだ。ここの留置場は一から三、それに五、六号室の全五室と、女子と少年用の房が予備的に二室ある。ただし個人番号は移監や釈放に合わせて順次、次の入房者に割り当てられていく。
 本日は休日であり、逮捕直後か緊急の事情がなければ取り調べが入ることはない。
 黒板に目をやると、六号室に8番の番号札が掛けられていた。前当務にはなかった番号札だ。
 マグカップを持ってきた長山に訊く。
「この8番はいつ入った?」
「金曜だそうです。木島(きじま)という半グレの男で覚せい剤の所持みたいですね」
 ふーん、と頷いていると、いきなりドタバタと騒々しい音が留置場内から響いてきた。すぐに出入り口の小窓から場内を覗いてみる。すると本日非番となる留置担当二人と見覚えのない男が取っ組み合いをしていた。男の年齢は三十代ほどだろう。坊主頭で目が血走っている。
 俺はふうっとため息をついた。見覚えがないということは、あれが8番の男なのだろう。シャブが切れかけてフラッシュバックでも起こした可能性が高い。あの調子だと場内の非常通報ボタンが押されるのも時間の問題のようだ。
「長山、俺が入ったら鍵しめてくれ」
「え、大丈夫っすか? 僕も行きますよ」
「まあ、ここでゆっくりコーヒーでも飲んでてくれ」
 言って俺は鍵を開けて場内に入る。後ろ手でドアを閉めると、すぐに長山が外からドアをロックした。途端に場内特有のむっとする臭気が鼻をつき、喧騒が耳に飛び込んでくる。扉が開いているのは六号室だけのようだ。ほかの留置人はいい見世物とばかりに乱闘をあおっている。
「いいぞ! やれっ! やっつけろ!」
 それぞれの房は縦に何本かの鉄柱があり、その内側には目の粗い頑丈な金網が張られている。その金網を手で叩きながら各々がはやし立てていた。ガシャガシャと耳障りな音が響いている。
 俺は大きく息を吸い込む。
「るせぇーーーっ!」
 一喝するとはやし立てていた声がぴたりと止んだ。砂漠のミーアキャットの群れが敵を察知したかのように、いっせいに視線が俺に集中する。
 暴れていた男は抑えていた非番員の手を振り切ると、脱兎のごとくこちらに突進してきた。真正面から向かってくるが、男の眼差しは俺ではなく背後のドアを見ている。明らかに拘禁症状だ。頭の中はここから逃げることしか考えていない。
 飛びかかろうとする男に俺は前蹴りを食らわせた。蹴った足の感触が柔らかい。俺も優しくなったもんだと思う。ずいぶん手加減したつもりだが、それでも男は後ろにひっくり返った。こんなシャブ中で無防備の男にまともに蹴りを入れたら、たちまち病院送りになってしまう。
 男は性懲りもなく立ち上がって俺を睨みつけると、今度は体勢を低くしてつかみかかってきた。両手を伸ばして腰のあたりに手を掛けようとするが、俺は男の右手首を左手でつかむ。そして突っかかってくる男の勢いを利用し、そのまま右腕を絡めて巴投げの体勢で投げ飛ばした。男は前方回転するが、途中脳天をしたたか床に打ち付けてゴンッと鈍い音がする。そのまま白目をむいて動かなくなった。こっちは腕を決めて一緒に背中から一回転したが、そんな必要もなかった。
「おおー、すげぇ!」
「あいつ、死んだんじゃねぇの? まだ生きてる?」
 房内のあちこちから声がした。
 慌てて非番員の二人が駆け寄ってきた。小松(こまつ)係長と滝本(たきもと)部長のペアである。よほど制圧に手を焼いていたのだろう。二人とも汗だくだ。
 先に小松係長が頭を下げて謝った。階級は同じで年も近いが、彼のほうが数年ほど先輩となる。
「申し訳ない。こいつが急に暴れ出して、とんでもない馬鹿力を出すもんだから」
「なんでこんな時間に六号室の扉を開けたんです?」
 念のために訊くと、若手の滝本部長が忌々しそうに言う。
「こいつ、朝調子が悪いっていうから寝具の片づけを一人だけ遅らせたんです。まだ捕まってきたばかりだし、シャブの影響もあるだろうと思って。そしたら扉を開けた途端に暴れ出したんです。くそっ、騙されました」
「こういうバカは痛い目に遭わないとわからないから、ちょうどよかったんじゃないですか」
 俺は床にのびている男に目をやりながら言った。
 男は半分薄眼を開け、どこか幸せそうな笑みを浮かべたまま気絶している。今はまだいいがまた暴れるといけないので、この男には拘束具を使用することにした。映画『羊たちの沈黙』でレクター博士が縛り付けられていた機具だ。これを使用するとミイラみたいになって身動きできなくなる。
 俺は男の右足をつかんで看守台の前まで引きずっていった。そのとき、ようやく署の当直員が大挙して場内になだれ込んできた。長山が当直に報告を入れたのだろう。「大丈夫か!」と勢いづいて場内に飛び込んできたまではよかったが、俺が男を引きずっているのを見て、みな目が点になった。
 けっきょく、男は拘束具でぐるぐる巻きにされて六号室に戻された。

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