第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み エキストラ

『エキストラ』

瀧本無知(たきもと・むち)25歳
1994年生まれ。
慶應義塾大学大学院理工学研究科修了。会社員。


 Chapter 1 Death in Your Memory

 1

2017/12/8 07:25
 目覚めると、そこは見知らぬ空間だった。床面に直に寝かされていたためだろう、痛む腰を押さえながら男は起き上がった。
 周囲を見渡して、そこがただの部屋ではないことに気が付いた。二十畳程の正方形の部屋だが、打ちっ放しのコンクリート壁には窓もなければ、家具の影すらない。殺風景で閉鎖的な空間はまるで監獄だと男は思った。
 唯一の希望は一枚のドアだった。恐る恐る手を伸ばすも、ノブは途中までしか回ってくれなかった。頭を垂れ、脇の壁によりかかる。
 その直後、ドアのノブが回った。思わず身を引いて、そちらに目をやる。
「おはようございます。大川康弘さん」
 透き通るような女性の声が男の耳にするりと入り込んできた。続いてドアの隙間から見えたのは、少しウェーブのきいた漆色のショートボブ。その合間から覗かせる瞳は人の中まで見据えてしまいそうな印象を抱かせたが、白のブラウスにタイトな黒のスラックスに身を包んだスタイルはおよそ誘拐犯らしく見えない。
「何故俺の名前を……お前がやったのか」
 女性の華奢な体格が大川の口調を強くさせた。
「その質問にはお答えできません」
「どういうことだ」
 大川は声を張り上げそうになるのをこらえながら冷静に訊き返した。しかし、わずかに拳に力を込めた。この女が真っ当な人間でないことは間違いない。だとしても体格差は歴然としていた。
「打開の隙がありそうに見えますか?」
 大川の心中を見透かしたかのように女は口元を緩めた。思わず握った拳を背中に回した。
「残念ながらお勧めできません。確かに、あなたなら私の腕を一本へし折ることなど造作もないでしょうが、私たちを倒すのは簡単じゃない。そうでしょう、上京くん?」
 女は大川の背後高くに目をやった。大川も振り返って視線を追った。
 天井は遠かった。ただ、コンクリート壁は天井に届いていない。上部には空間があるのは間違いない。そこにいるらしいカミキョウとやらの姿は暗がりで見えないが、壁面の上からこちらを覗く黒光りする何かと目があった。見間違えるはずもなく、銃口だった。
「大人しく話を聞いていただけますね」
 女は大川の背中をそっと撫でるような声を発した。
「……ああ、分かった。話を聞くから、撃たないでくれるよな」
 大川が縋るように目を見ると、女は笑った。「大人しくさえしていただければ」
 大川は一つ息を吐くと、壁によりかかった。そっと上に目を向けたが、壁面から顔を出した銃口は尚も彼の脳天に向けられていた。すぐに目を反らし、その存在を意識の外へ追いやろうとした。
「目的は何だ? 金なら全部やる。だから命だけは――」
 大川は再び、正面、ドアをふさぐように立つ女に目を向けた。
「誤解なさらいでください。私たちはあなたの敵ではありません。協力者です」
「協力者?」大川は思わず吹き出しそうになった。状況が状況だけに笑いの沸点がおかしくなりそうだった。けれども、大きく揺れ動いた大川の感情の起伏をすぐに鎮めてしまう程に、女の口はきつく閉じられたまま、微動だにする気配も見えない。
「……本気で言っているのか」
「本気ですよ」
「差し金か?」大川は目を細めた。
「差し金?」女の声のトーンが上がった。
「誰の、でしょう。思い当たる人物でも?」
「いや」大川は目を反らした。「かまをかけてみただけだ」
「そうですか」女は残念そうに言ったが、すぐに「ところで」と切り替えた。
「大川さん。昨日のことを覚えていらっしゃいますね?」
「昨日」大川は眉をひそめ、視線を落とした。

2017/12/7 22:28
 今冬初めての雪だった。昨夜は冷え込みの厳しい晩だった。
 バンを止めていたのは、横浜市内、高架を走る線路の擁壁に沿った細道だった。大川は自販機で買った缶のスープを飲みながら、通りの向こう、薄暗い視界で唯一目立つ信号機の色が移ろう様を眺めていた。
 人通りも交通量も少ない通りだった。だからこそ、大川はサイドミラーに写る人影にすぐに気が付いた。傘に隠れて顔はよく見えない。けれども、その人影が自販機の前を通りかかった際、ベージュのロングコートにワインレッドのマフラーが揺れるのが見えた。
 間違いない。彼女だ。大川は確信した。
 その女性はバンの脇を通り過ぎ、信号機の方へと向かった。腕時計に目をやった。二十二時二十九分。いつもより少し早い。大川はサイドブレーキに手を伸ばした。
 その手を止めたのは、女性が立ち止まったからだった。信号機より十メートル以上は手前。しかも歩行者信号は青だった。
 女性はゆっくりと振り返った。手を放れた傘が一旦女性の姿を隠し、再び大川の視界に入ったときには、彼女の視線はフロントガラス越しに大川に向かって投げかけられていた。
 別人だった。ちらつく雪が、付着した髪の黒さを際立たせた。見開かれた瞳が暗がりに忍んでいるはずの大川を、まるで獲物を見つけた梟のように見ていた。
 大川は自らに言い聞かせた。女性の恰好だってとりわけ珍しいものではない。ただ不審に思われただけだ。そしてバックし、車体ががくんと沈んだ。
 パンクだ、とすぐに悟った。慌てて外に出て後輪のところに駆けた。右の後輪のところに釘が刺さっていた。それも、ご丁寧にバックしたら刺さるような角度で自立するよう固定した形跡も見られる。
 大川が白い溜息を吐いたそのとき、こつん、とヒールが地面を打つ音がすぐ背後から聞こえた。女性のことが意識から抜け落ちていたことに気が付き、振り返った。
 ワインレッドのマフラーが目の前ではためき、そして火花が散った。そこからの記憶はなかった。ただ、その迸る火花の向こうで、温度のない光を宿した双眸を見たような気がした。

ページ: 1 2 3