第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 虐待鑑定 ~秘密基地の亡霊~

 裁判所の対応が遅れたのか、午後になっても許可状は下りず、司法解剖は翌日に持ち越された。
 真壁が実習室に行くと、すでに学生たちが集まっていた。医学部のカリキュラムには法医学が必修として含まれている。その実習指導を真壁ら助教が担当していた。
 検査器具と格闘する学生たちの質問に答えながら、解説を加える。
「皮膚紋理検査。つまり指紋の検査は低コストであること、検査時間が短いことなどからDNA鑑定が主流になった現在でも有用です」
 我ながら機械的な説明だと思うが仕方ない。教育や指導は最も苦手とする領域だった。
「金属、ガラス、プラスチックに付着した指紋は三ヶ月程度で消えてしまう。一方で、数十年間残留するものもあります。わかる人?」
 利発そうな女学生が手を挙げた。
「紙です」
「そう。しかし、直射日光に当たったものは一年から二年で消えます」
 続いて、唾液を使ってのABO式血液型検査に移る。
「DNA検査の登場で、あまり行われなくなった検査ですが、抗原抗体反応については大丈夫ですね」
 学生たちが唾液サンプルの検査を始めると、真壁は論文資料に目を通した。助教の契約期間は残り二年。その間に論文を複数発表し、研究成果をアピールしなければならない。無期契約の講師に格上げされるか、最低でも助教として契約を更新してもらえなければ無職となる。しかし、法医学教室では毎日解剖に追われる上、学生の指導もしなければならず、論文を進める時間がほとんど取れない。結果、睡眠を削り続け、体を壊す。
「あのう、先生……終わりましたけど」
 学生たちが困ったようにこちらを見ていた。
 機械的な説明でまとめ、実習を終えると、数人の学生が近寄ってきた。
「真壁先生、新聞に出たんですよね!」
 またか。
 真壁の素っ気ない態度に学生たちは少し気後れした様子を見せた。
 去年、助教として採用されてすぐに地方紙が法医学教室を取材した。その際、若き助教として真壁がクローズアップされたのだ。真壁にとっては煩わしい以外の何物でもなかったが、以来、記事を読んだ人から時折声をかけられる。
「僕も法医に進もうかなって思いました」
「昔から興味はあったんです。ドラマとかで見ていて」
「法医学って臨床より面白いですか?」
 質問が矢継ぎ早に飛び出す。
 真壁は資料を小脇に抱えて、学生たちを見回した。
「寝る暇が無くて、収入は臨床医の半分以下。それでいて働き口も無く、大学に就職できなければ、医学部にかけた費用や時間が無駄になる。それでも良いと割り切れるなら面白いんじゃないか」
 先輩の務めとして事実を答えたつもりだったが、学生たちはみるみる表情を曇らせた。 とはいえ、無責任なことを言うよりはいい。
 法医は全国で百五十人しかおらず、現場は常に疲弊している。地域によっては、一人の法医学者が県をまたいで飛び回り、一日十体解剖することもある。北海道の法医解剖は札幌と旭川の法医学教室が担当してきたが、あまりに範囲が広大だったことから函館医大にも法医学教室を新設し、道南地域を受け持つことになった。函館医大の法医は助教の真壁、横居、そして、教授の宇佐美。わずか三人で年間三百体近くを解剖している。
「おそらく、君たちの学年で法医学者になる人間はいない」
 絶句する学生をよそに真壁は実習室を出た。

 法医学教室では横居が学生向けのテキストを眺めていた。函館医大で使われているものではないので、『バイト』用だろう。教授や准教授に比べ、収入が圧倒的に少ないため、他大学の仕事を掛け持ちする助教は多い。他所の仕事を平気で広げる神経が気に障るが、横居のことを考える時間がもったいない。まだ目を通すべき資料は膨大に残っている。
「真壁先生、教授が呼んでましたよ」
 青山に声をかけられると、視界の隅で横居がニヤけた。真壁は内心で唾棄しながら廊下に出た、隣接する教授室のドアをノックする。
「どうぞ」
 低い声に招かれ、中に入る。教授はちょうど電話を切るところだった。
 宇佐美正彦。函館医大教授。今でこそ法医学教室には二人の助教がいるが、教室が設置された当初は宇佐美一人で道南地域の解剖を全て引き受けていた。
「横居先生から聞きましたよ。遅刻は良くないが、チームワークも大事です。まあ、仲良くやってください」
「はい」
 思っていたよりお小言が軽い。横居のニヤケ顔に悪意は無かったのか、それとも悪意が空振りになっただけか。
 拍子抜けしている真壁に宇佐美がソファを勧めた。
「ところで、改めて頼みたいことがあるんだよ」
 嫌な予感がした。
 ソファに座ると、宇佐美も対面のソファに移った。
「例の臨床法医の件、正式にお願いしたい」
 やはり──。
 回復しかけていた気分がどんよりする。
 昨今、法医学教室では『臨床法医』と呼ばれる児童虐待の鑑定依頼が増えている。虐待は診断が難しい。児童の身体に虐待跡が見つかっても親は当然虐待を否定するし、虐待を受けている児童も暴力や親と引き離される恐怖から虐待されていないと嘘をつく。臨床法医は医学的見地から児童を診断し、虐待の有無を見極める。死体の専門家が生きている子供を鑑定するのだ。
「臨床法医は横居先生の担当では?」
「もちろん、横居先生にも引き続きやってもらう。だが、児相から依頼が増えてきてね。一人では対応し切れなくなってきたんだよ」
「時間が取れません」
「これも、我が教室の存在意義を高めるためだ。協力してほしい。先生たちの手が回らなくなった解剖は私がやる。チームとしてお互い助け合っていこう」
 チームという言葉が同調圧力にしか感じられない。解剖に学生指導、そこに臨床法医まで加われば、とても論文を書いている時間など無い。
「児相からも真壁先生に期待する声があるんだよ。あの新聞記事が効いてるね」
 思わず舌打ちをするところだった。
 新聞は宇佐美教室が臨床法医に取り組み始めたことを取り上げた。新米の真壁が虐待鑑定を任されたのも今思えば、予算確保のため宇佐美が仕組んだ宣伝だった。真壁は二十代で助教となった、カッコ付きのエリート法医学者として客寄せパンダにされたのだ。
「ですが、もう子供の臨床は……虐待の鑑定は向いてないと痛感しました」
「虐待児童の対応に向き不向きは無いでしょう。確かに、児相での出来事は災難だったと思うが、そうそうあることじゃない」
 真壁は奥歯を噛んだ。臨床法医の苦い経験はパンダ扱いされたことだけではない。今でも身の危険を感じている。だが、この教授には所詮、他人事なのだ。
 最初の鑑定は単純だった──。
 ある男が一歳の息子を虐待していた。真壁が目を留めたのは児童の手の甲にできた傷だった。男は「子供が部屋のあちこちを弄っていて勝手に怪我した」と主張したが、真壁は即看破した。一歳児が手の甲で物を探索することはないからだ。
 熱湯で火傷した二歳児の鑑定も即解決に繋がった。当時、子供と二人きりだった父親は「目を離した隙に子供が風呂の蛇口をひねり、熱湯を浴びた」と証言。しかし、二歳児の手はまだ蛇口をひねることはできない。真壁は児相から話を聞いただけで父親の嘘を見抜き、そこから火傷以外の虐待も次々と発覚したのだった。
 新聞記者は若手法医学者のお手柄として面白がり、宇佐美も喜んだ。しかし、望まぬ臨床法医デビューは真壁にとって災難の引き金でしかなかった。
 記事が出て数日後、児童相談所に出向いていた真壁は帰り際、怒鳴りこんできた男と鉢合わせした。二歳児に熱湯をかけた男──岩田信二郎が児相の職員に難癖をつけている。真壁は逮捕された岩田が自由に出歩いていることにまず驚いた。一般的な傷害と同等に拘留されていると思っていた。岩田の場合、継続的な虐待が明らかになっている。火傷を負わせるなど行為も残虐だ。それでも児相と警察は経過観察を選んだ。親権を盾にした虐待親に屈したのだ。
「どうしてくれんだ! てめえらのせいで仕事クビになりそうなんだぞ!」
 岩田は反省していないどころか児相を逆恨みしていた。救いようのないクズ。それと真壁は目が合った。
 岩田はすぐ真壁に気づき、詰め寄ってきた。
「おい、新聞で見たぞ! てめえがチクったんだな! なんだ、その目は! 汚ねえモン見るような目ぇしやがって!」
 真壁は無視して立ち去ろうとした──と、顔に激痛が走り、壁に叩きつけられた。岩田は二発目を打ち込もうとし、職員が慌てて抑える。
 頬骨の痛みが熱を帯びる。しばらく腫れそうだ。真壁は喚き散らしている岩田を睨んだ。
「すっきりしただろう。これでクビが確定だ」
 岩田の顔が怒りと屈辱に歪んだ。
「てめえ、夜道気ぃ付けろよ!」
 ずいぶん古風な捨て台詞だと可笑しかったが、岩田は傷害でもすぐに釈放され、以来、夜に何者かの視線を感じるようになった。
 一方で岩田の暴挙は朗報ももたらした。殴られたことで臨床法医の仕事から外れることができた。
 臨床には初めから興味が無かった。医学部入学から研修医、博士課程を通し、一貫して法医への道を最短ルートで走ってきた真壁にとって、興味の対象は死体解剖に絞られていた。
「殴られたのは不運だったが、児相の皆さんは常にそんな圧迫を受けているんだよ」
 宇佐美がソファに深く座り直した。
「それと僕が臨床法医に戻ることにどんな関係があるんですか?」
「何も虐待の鑑定だけやってくれと言っているんじゃない。解剖は今まで通りお願いする」
 それが大変なんだ……。不満をオブラートに包む。
「ですが、人手が足りません。臨床法医は近くの医大に担当してもらったほうが」
「真壁先生」
 宇佐美の声に力がこもり、二の句を止められる。
「これは法医学教室の仕事です。それに真壁先生にとってもチャンスだ」
「チャンス? できれば解剖と論文に集中したいのですが」
「正直に言おう。先生がここに来た当初はかなり期待した。いや、今でもそれは変わらない。若いのに解剖の腕も所見もベテラン以上。よく勉強もしている。これまでの論文も素晴らしい。しかし、学生への指導に関しては評判が良くない。やる気が全く見えないと教授会で嫌味を言われたよ」
「知識を得るのに指導者の人格が関係ありますか?」
 宇佐美は鼻で笑った。
「ふふ。相変わらず無表情だが、怒ってるのかな? いやね、私は真壁先生を買っているんだよ。是非、長くこの大学にいて欲しい。もちろん、ステップアップもさせるつもりだ。その上で、臨床法医の仕事は大学へのアピールにもなるだろう?」
 称賛に見せかけた恫喝。大学にアピールしたいのは宇佐美自身だろう。
 法医のポストはもともと極端に少ない。さらに、近年は大学の研究職雇用そのものが狭まっている。契約をちらつかされるのは急所をなぶられるのに等しい。
 こんな駆け引きをするために医師免許や法医認定を取ったわけじゃない。出かかった愚痴を真壁は飲み込んだ。
「わかりました。ですが、解剖は優先させてください」
「助かるよ。早速で悪いが、児相から連絡が来ている。五稜郭病院だ」
 呆れた。初めから真壁の意思を考慮するつもりは無かったと見える。
 教室に戻った真壁はデスクに白衣を脱ぎ捨てた。
「悪いね、真壁先生。手が回らなくて」
 横居がニヤけ顔を押し殺している。復讐のつもりなら最高に効果的だ。真壁は無言で教室を出た。

つづく

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