第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 虐待鑑定 ~秘密基地の亡霊~

 第一章
  
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 目を覚ますと同時に吐き気がこみ上げた。全身が汗で気持ち悪い。
 真壁は突っ伏していた机から身を起こし、薄暗い法医学教室を出た。
 あの日の夢──十六年経っても頻繁に見る悪夢。むしろ最近は頻度が増している気さえする。悪夢を見た日はしばらく体調が悪く、嘔吐することも珍しくない。
「くそ……忙しいときに」
 トイレの洗面台で顔を洗いながら真壁は自分を呪った。ただでさえ疲労が溜まっているのに、自ら余計な負荷をかけてしまった。
 トイレからガラス張りの廊下に出ると、清掃員が窓を拭いていた。外はもう明るくなっている。大学で一夜を明かすのもすっかり慣れた。教室で論文を書いているうちに寝落ちし、朝を迎える。安眠とは程遠いものの、早朝の誰もいない大学の静謐さが好きだった。ガラスの向こうに見えるキャンパスは紅葉で色づいている。
 自販機でコーヒーを買い、教室に戻った。
 真壁天。函館医大法医学教室の助教となり二年目──。
 今日は午前中に承諾解剖が入っていた。殺人など事件性のある死体を扱う司法解剖と異なり、承諾解剖で扱うのは事件性なしと判断された死体だ。遺族の依頼や承諾のもとで行われる。
「おざーす」
 大学院生の青山友則が雑な挨拶で入ってきた。成績優秀とは言えないが、法医学教室を選ぶ院生は少ないので貴重な人材ということになる。
「あれ……真壁先生、また泊まりですか? 風呂入らないと死臭取れなくなりますよ」
 二十八歳の真壁は青山と二歳しか離れていない。その気安さが青山のフランクな態度に繋がっている。
「横居先生は?」
 真壁は論文の資料を片づけながら尋ねた。
「さあ。来る途中では見ませんでしたけど。たぶん昨日は白百合大のバイトでしょうから朝まで飲んでたんじゃないですか」
 同じ助教の横居がまた朝の解剖に遅れている。今期から他大学での講義を増やしたのが原因だろう。真壁より十歳程上の先輩格だが、尊敬できる相手ではなかった。
 研究室の電話が鳴った。応対した青山が受話器の口をふさぎ、真壁を見る。
「承諾解剖です」
「通せ。準備できている」
「え……横居先生は?」
「いつ来るかわからない人間を待っていられないだろ」
「でも……」
「急げ。今日は、もう一件入ってるんだ」
 戸惑う青山を置いて前室に入った。
「待たなくて大丈夫ですか?」
 青山の念押しに答えず、着替える。気分はまだ優れない。
 解剖室に入ると、大理石の解剖台に女性の遺体が載せられていた。真壁は遺体の横に立ち、いつものように遺体に会釈した。
 遅れて青山と立ち合いの警官が入室。
「カメラ」
 真壁の指示で青山が遺体を写真に撮った。
 顔が赤くなった遺体。在宅中に倒れ、そのまま死亡。発見者は夫。高血圧で薬を服用していたが死因不明のまま事件性なしと判断された。
 解剖は『異常死体』と呼ばれる死因不明の死体に対して行われることになっている。しかし、実際は殺人事件を含めても異常死体の解剖率は一割のみ。警察の検視で、事件性なしと判断された死体ならなおさら。まず解剖されない。
 今回は死亡した女性の両親から警察に解剖依頼があった。
 写真を撮り終えた青山がメスなどの解剖道具を台の脇に寄せる。
「真壁先生、準備ができました」
 青山の報告は耳に入っていたが、真壁は遺体の首筋を凝視したまま答えない。
「真壁先生?」
 青山が顔を覗き込んだ。
「これ、警察医も事件性なしだと?」
 解剖室が沈黙に包まれた。
 ややあって、警官が自分に向けられた質問だと気づく。
「……はい。何か問題が?」
「この遺体、僕らは触れません」
「……どういうことでしょう?」
「これ、扼殺ですよ」
「え?」警官は丸くした目を死体に向けた。「殺しですか?」
「顔のうっ血。首の筋肉に出血跡。間違いない。これ以上は続けられません」
 遺体は病死ではなく、首を絞められて殺されていた。殺人の疑いがある遺体は行政解剖ではなく、司法解剖扱いになる。行うには、裁判所から鑑定処分許可状を出してもらわなければならない。
「すみません、警察医にも確認してもらったのですが……」
 言い訳になっていない。警察医が検視官の要望通りに検案書を書いていることは青山ですら知っている。警察が金のかかる司法解剖を避けたがることも──。
「とにかく、許可状をもらってきてください」
 警官はすっかり小さくなり、引き上げていった。
「ちょっと可哀そうじゃないですか?」
 青山が苦笑する。
「警察だって忙しいんだ。単刀直入に伝えたほうがいいだろう」
「そうですけど、もっと違う言い方が……」
「許可状は早くても午後だな」
 話を打ち切り、前室に戻ると、横居が飛び込んできた。
「おい! 何をした?」
「扼殺の痕跡があったので、司法解剖に変更しました」
「なぜ、俺を待たない!」
 憤る同僚に目もくれず、解剖着を脱ぎ始めた。
「いつ来るか読めなかったので」
「……教授には報告するぞ」
 横居は憮然として出ていった。
「やばくないですか? 横居先生、完全にキレてましたよ」
 聞こえないふりをしていた青山が囁いた。
「なんで、真壁先生と横居先生って仲悪いんですか?」
「余計なこと喋ってる暇があるなら一行でも論文を書け」
「……クールにも程がありますよ。真壁先生って、泣いたり、笑ったりすることあるんですか?」
「記憶にはないな」
「子どもの頃はさすがに泣きましたよね?」
「警察から連絡があったら教えてくれ。構内のどこかにいる」
 真壁は前室を出た。失敗だったか。横居に気を遣う気などさらさら無いが、教授の心証を悪くするのは大学職員として悪手だ。死体とならば何時間でも向き合っていられるのに、生きた人間と接するのはひどく疲れる。

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