第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 死神の二律背反

『死神の二律背反』

烏丸数人(からすま・かずと)39歳
1980年生まれ。農業従事者。


 プロローグ

「安心して……、貴方を、正しく殺してあげるから――」

 真冬のシンと冷えた空気に沁み込むような、ひどく透明な声だった。不明瞭な意識の中、ふと俺はそんなことを思う。
 閉じていた目蓋を薄く開く。やけに暗い。『熟女限定』。何かいかがわしい部類の派手なピンクチラシと、埃塗れのフローリングが視界に飛び込む。いやに近い距離感。その事実から、自分が崩れるように座り込んでいることを悟る。背中には、何か固い感触があった。おそらくは何らかの壁に凭れるよう、俺は背を預けているのだろう。
 さんざ酒をかっ喰らい、よく知らぬ女の部屋で一夜を明かした翌朝のよう。霞のようにぼやける思考。最低限の事実を一つずつ認識する俺の元に、再び誰かの――女の声が耳朶を打った。
「百聞は一見にしかずっていうでしょ? 下手な説明をするより、じかに経験してもらうのが一番だし」
 いかなる感情もそこに含まないような、じつに平淡なトーン。電話口で聞こえる自動音声から、さらに愛想の類をばっさりカットして編集したような、ひどく味気ないものだ。一夜の甘美な物語の気配は、そこに一切、面影を残さない。
 いまだ、ピンクチラシとフローリング、そして謎の声だけで構成された世界で。
 やや遅れて、声の方へとゆっくりと首を傾けていく。
 数歩ほど離れた位置、甲の部分にタッセルのあしらわれたローファー。紺色のソックス。続け、暗がりの中に瑞々しい素肌と、タータンチェックのスカートが連続的に視野に入る。広告に偽りあり。その水をも弾くような太腿は、熟女のそれとは大きく乖離している。そんなことを思いながらも、まっさらなYシャツが見えたその途端、俺は思わず声を上げていた。
「お前っ……、よ……っ!」
 瞬間、込み上げてきた種々の感情に誘われるまま、俺の涙腺は崩壊しかける。が、それもほんの束の間のことだ。対面する女の顔がはっきりと窺えたその時、降って涌いた俺の歓喜は、ものの見事に沈静化された。
「混乱してる……? ま、最初は誰もが通る道だから――」
 ありふれた、人違い。
 だが、そんな俺の変化にも、女は――いや、少女はまるで頓着する風はない。
 凛然と屹立する少女。涼しげな夏の学生服が、薄闇の中でぼうと淡く浮かび上がる。やがて、白魚のごとくほっそりとした右腕が、無造作にスカートのポケットへ。まるで、手持ちの携帯を取り出すような仕種だ。されど少女が取り出したのは、そんな平和的で近代的なツールとは一線を画す代物だった。
「っ……!」
 暗がりに鈍く煌めくそれに、思わず息を呑む。刃渡りおよそ十センチほど。俗にいう、果物ナイフ。それがいま、何の脈絡もなく少女の手に握られていた。その鋭利な刃先の煌めきにも似た、冷えた視線をこちらへしっかりと縫いつけたままで。
 そんな状況を前に、俺は動くことも、声を出すこともままならない。ただ、彼女の一連の所作に刮目するだけ。何かを判断するには情報量があまりに不足し、いまだここへと至る経緯が線を結ばない。ただひとつだけ、俺はその手がかりとなるものをすでに手にしているようにも思われた。少女は初め、俺に何を語ったのか。そう……『安心して……、貴方を、正しく殺してあげるから』……だ。
 正しく、殺す?
 その正確な意味合いのほどは不明だが、どう考えても穏やかなものではない。
 脳内でそんな結論を導いたその時、状況はすでに動き出している。俺が導いた方向、さらにその先へとまっしぐらに動き出している。それも最悪の方へと、一心不乱に。
 剣呑な雰囲気が、間欠泉めいて急激にふくれあがる。と、そう認識した次の瞬間には、少女の姿はもう間近にと迫っていた。腰溜めに、両手にナイフを。躊躇いも無く、ただ真っ直ぐに。それこそ半ば、俺の方へと倒れこむような挙動でもって。
「が……っ!」
 強い衝撃とともに、ふわりとベルガモットの品の良い香りが漂う。おそらくはそれは、翻る長い黒髪から。いま、彼女の頭部は俺の間近に。死の香りにしては気の利いたこれは、せめてもの冥土の土産なのか。胸部を強かに突かれ――。そう、心臓を一突きにされ……心臓?
「な、んで……っ!」
 抗うように発した言葉が、先の一言目と同じく尻切れに途切れていく。
 その間、少女は念押しとばかりにナイフをわずかに捻った後――。とん、と俺の肩口に左手を。その反動とともにナイフを引き抜くと、ゆっくりと後退していく。路傍の石でも見るよう、高みから俺を睥睨しながら。
 よく出来た石膏彫刻のようになめらかな輪郭。勝ち気につり上がる柳眉のすぐ下で、切れ長の瞳がわずかに細められていた。状況を無視して思わず見惚れてしまうも、やはり見覚えはない。れっきとした赤の他人だ。ゆえに、もつれるだけの痴情もない。それなのに、何故?
 俺はしばし、少女の表情を呆然と見つめていて。
 それから、状況の割には遅れて現れた痛みに、自身の胸部に手を這わせた。はじめは、ただ反射的に。次に、心許ないながらも止血を試みるために。 
 けれど。
 幾ら待ってみても、そこから溢れて然るべき出血の類は見受けられない。その時になってはじめて、自分がスーツを着ていたことを知るが、リネンのYシャツには破れもなく、白い輝きを保ったままだ。水気といえば、身体からじっとりと吹き出す冷や汗だけ。それ以外、特段の異常は見られない。先ほどわずかに感じた痛みさえ、今では波が引くように収まっていた。
 自然、陥るのは、狐につままれたような心地。
 処理しきれない情報量の多さと、その出鱈目さと。
 思考停止を余儀なくする俺に、再び、彼方から声が投げられた。
「驚いた? ま、驚くなって方が無理な話だろうけど――」
 当初と同じ、俺から数歩ほどの位置。手元で件のナイフを弄びながら、少女が言う。そこに悪びれる風は無く。どころか、先ほどと同じ平淡な調子でもって。
「一体……どういう……?」
 いまだ俺は、刺された箇所を矯めつ眇めつ。スーツのジャケットを開いて、そうあって然るべき現象を念入りに調べてみる。が、やはり外傷はない。以前と同じ、半ばむさ苦しいまでの胸板が厳然とそこに居座っているだけだ。
 時間にして、一体、どれほどか。姿勢もそのまま、数回、慎重に息を吸って吐いてみた。痛みはおろか、出血多量による酸素欠乏等の症状も、もちろん見られない。
 なら……。
 そこまできてやっと、俺は一つの結論へと辿りつく。あのナイフは――いわゆる、バネ仕掛けのオモチャだ。昔、刺すと同時に刃先が引っ込む、プラスチック製のパーティーグッズがあったことを思い出す。ならば少女が持つのもまた、その類のもの――。意図はともかく、そう考えるのが当然の帰結であるよう思われた。
「な、なんだよ……オモチャか……、驚かせやがって……」
 額に手を。宙を仰ぎ、俺は深く息を吐く。
 見上げた天井との間に、透かし彫りの施された四角い箱がぶら下がっているのが覗えた。ふと気になりしばし凝視すると、その内側に、複数の燭台が見える。灯りこそともってはいないが、おそらく照明装置の類なのだろう。それなりの富豪の家か、もしくは何らかの風俗店の類か。そんなことを推測しながら、ひとまずは乱れた動悸を治めることに腐心する。怒りも忘れ、まずは安堵が先に立っていた。ガキの悪戯? 不可解な点は山積すれど、いまはそう思うより術がなく。
 だが、そんな結論に異議ありとばかり、すぐさま反駁の声がもたらされた。
「オモチャ? じゃ、自分で確かめてみれば――」
「……は……?」
 再び少女へと顔を向けたその時、視界の中で、彼女の右手首がぶれて見えた。ノーモーションから繰り出されたそれは、さながら卓越した牽制技術のよう。もちろん帰るべきベースも見当たらない俺は、その場に釘付けだ。気づけばかの印象深きナイフが、投げ出されていた俺の左脚のくるぶし、わずか数ミリのところにあった。転がっている、のではない。深々と床に突き刺さり、しっかりと自立している。それこそ、犬神家の有名なあのシーンを彷彿とさせるような有様で。
「……あ、あア……?」
 その事実に、まるで理解が追いつかず。あんぐりと口を開けたまま、俺は呆けた声を漏らすしかない。
 そして、少女は次にこう語ったのだ。例によってやはり、にこりともせず。

「解ったでしょ? 種も仕掛けもない。……貴方はもう、死んでるから――」

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