第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 甘美なる作戦

 総務課長の木之内は初めから、機嫌がわるかった。興和ケミカル株式会社の窓からは、ビルの間にウグイス色の水を湛えた隅田川がのぞき、座る位置によってはゆりかもめが車体を斜めに傾けながら通っていくのが見える。
 あまり調度のない応接室に、市岡真二は居心地わるく腰かけていた。隣には麦山組の若頭を務める荒木田勉が座っている。新明興業社では営業本部長という役付きだが、部員の半数は世間とは別のところで〈お務め〉に励んでいた。
「木之内さん、あなたもよくおわかりのはずですがね。私どもの扱っている雑誌は、総会屋のいわゆる情報誌とはわけが違う。あんなものはガセネタやらスキャンダルもどきの寄せ集めだが、私どもの執筆者はれっきとした学者先生ばかりですよ。東洋や日本の古典の精神を現代人にもわかりやすく説いてくださっています。先代の社長さんは経済活動にもモラルと伝統精神が必要だとよくご理解いただいて、月々きちっと決まった部数を購入していただいてきた。それを経営陣が交代したからといって、いきなり購読を打ち切るというのは、穏やかじゃない。先代社長の経営哲学を足蹴にすることにもなりかねませんかね」
 荒木田は学があるせいか、弁が立つ。見た目はすらりと背が高く、フレームレスのメガネをかけ、まるでエリート銀行員のようだが、麦山組はこの男がいるから武闘派の看板を上げていられるとも言われていた。
「ですから、その経営方針が変わったんですよ」
木之内課長はいらだたしげに手を振った。
「コンプライアンス尊重、株主重視、経理の透明化、つまり早く言えば企業活動とかかわりのないお金は一円たりとも出せないということです。そうなると、おたくの雑誌などもカットせざるを得ない。それにこれはもう、執行役員会で決まったことですから、覆りません。私の一存でどうこうできる話じゃないんです」
「しかし、今だって、こうして『論語』の言葉を掲げていらっしゃるじゃありませんか」
荒木田は壁に掛けられた額を指さした。
「放於利而行、多怨。利によりて行えば、怨み多し。いつも利害ばかり考えていると、人の怨みを買うだけだ、という意味ですよね。これはまさにウチの雑誌がつねづね説いていることですよ」
「だからその精神は否定しません。けれど、論語を学ぶのになにもお宅の雑誌を定期購読する必要はない。そういうことです」
「いやいや、失礼ながら、課長さんは先代社長のお考えを理解しておられないようだ。よろしいですか、こうやって、日本の企業はどんどんアメリカニズムに流されていく。終身雇用制も労使協調路線もますます崩れていきますよ。そのうち金銭解雇制度が広まれば、正社員なんて身分もなくなります。それはもう日本の企業じゃない。先代社長はよくそれを憂いていらっしゃった」
「ご高説はごもっともと思いますが、先ほどから申し上げているように、それとこれとは別のお話だと――」
「どうも、あなたでは埒が明かないようだ。どなたか、私どもと付き合いの長い重役の方とお話しさせてくれませんか」
 荒木田が心なしか、ドスの利いた声を出しはじめた。
「ご無用です。役員会で決定したことですから。それに、そちらの雑誌の版元はお宅ではありませんね。お宅はいわば、よそで作った雑誌の取り次ぎをしているだけだ。仮に購読するとしても、版元さんに頼めば済む話ではないんですか」
 木之内に痛いところを突かれて、荒木田はいやな顔になった。麦山組では『生々流転』という文化情報誌をあちこちの会社に売り込んでいたが、版元は東方問題懇話会という、保守系東洋学者と活動家の集まりである。この懇話会は戦前の漢学者、高岡正胤の創立したもので、未だに一部の中国古典学者や国学研究者たちの活動基盤になっていた。
 麦山組ではこの雑誌を六掛けで引き受け、定価で売る。一九九二年(平成四年)の暴力団対策法、一九九七年(平成九年)の商法改正によって、企業が暴力団や総会屋に利益供与することはむずかしくなった。麦山組でもそれまで営業していた情報誌をどこでも断られたので、東方問題懇話会の雑誌を売ることに力を注ぐようになった。
 ヤクザのシノギとしてはショボいが、これが上部団体への上納金の一部になるので、手放すわけにはいかない。それと、購読企業との顔つなぎの意味もあった。相手につねに存在を意識させておくのが、ヤクザ商売のイロハのイだ。
「しかしお宅に取ってもらっているのは、たかだか百五十部じゃありませんか。いくら経費の厳正化と言ったって、鼻くそにもならん額でしょう」
「とにかく、決まったことですから」
「話し合いの余地はないと?」
「ありません。警察出身の担当者からの指示もありますのでね。あしからず」
「やれやれ。近頃じゃ、どこの総務でも同じように言われますな」
 暴対法は暴力団を社会から追放するという建前になっているが、ホンネは退職警察官の天下りよ、と荒木田はいつも口汚くののしっていたから、真二にも事情はわかる。暴力団対策の名目で、退職した警察官を総務部に再雇用する会社が増えた。総務担当者のいちばんの苦労は総会屋、右翼、暴力団との交渉だから、それもわからぬではない。けれど、もっともオイシイ思いをしたのが警察であることは間違いなく、荒木田は「ヤクザを食い物にしようというんだからな。警察くらい因業なやつはいねえよ」とうそぶいていた。
 荒木田が目配せする。真二はブリーフケースから茶封筒を取り出した。さっきから持ち出すタイミングを計っていたものだ。
「ところで先日、こんなものが手に入りましてね。お宅のポストにでも放り込まれると奥さんがご心配になるだろうと思って、こちらでとりあえずは押さえておきました」
 茶封筒に入っているのは、昨日撮ってきたばかりの、木之内の娘の写真だった。
「大方、どこかのエセ右翼あたりが、御社を恐喝するために仕組んだものでしょう。こんなものを見せられたら、奥さん、震え上がりますよ。そりゃそうだ。可愛い愛娘が今にも知らない男に捕まりそうになっているんですからねえ。まったく、ひどいことをする」
 荒木田は眉を寄せてうなずいている。クールなナイスミドルを装っているが、これで抗争相手の組員を二人叩き斬ったことがある。傷害罪で七年服役しただけあって、ちらりと見せる目つきは鋭い。
 木之内は蒼白になっていた。テーブルに置かれた写真を食い入るように見つめる。やがて恐るおそる写真に伸ばされた指は、傍目にもわかるほど、ブルブル震えていた。
「いやいや、ご心配はいりません。これが私どもの手に落ちたからには、誰にもお子さんに指一本触れさせませんよ。ええ、どうかご心配なく」

つづく

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