第19回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 砂中遺物

 銀座には、通りのどちら側からでも出入りが出来る抜け道のあるビルが多い。樋本と由佳は、賑やかな通りから人目を避けるようにそのうちの一本に身を滑り込ませた。
 抜け道を入ってすぐのところで、このビルに入ったクラブの黒服らしき蝶ネクタイ姿の若者が、足元のホームレスに立ち退くようきつい口調で告げていた。まだ若いのに生活の疲れとストレスを顔面に貼り付けた黒服と、のろのろと荷物をまとめ始めた中年のホームレス。両方とも和族だった。更に先に進んだ、通り道の半ばにある少し引っ込んだ管理人通用口のスチールドアの前では、まだ夜も早いというのにへべれけに酔った白人と、同伴出勤らしい私服姿のホステスが互いの舌を吸い合っている。白人の右手はホステスのスカートの中をまさぐり、演技なのか本気なのか分からないが女の鼻息がどんどん荒くなってくるのがここまで聞こえる。
「銀座も地に堕ちたな」歩を進めながら樋本が由佳に囁いた。「あれじゃまるで昔の闇市にいたパンパンだ。強者が出てくれば何もかもかなぐり捨ててそっちに付く……和族の女は本当にしたたかだよ」
 由佳は軽く肩を竦め、無言で樋本の後に続く。典型的な和族の男性である樋本の目には、和族女性はその時代時代の強者に媚を売り、股を開く事を躊躇わない尻軽にしか見えないのだろうが、その考えは浅はかすぎる。これは女性の軽薄さでも弱さでもなく、強さであり、生き残る手段なのだ。今樋本が使った「したたか」という言葉は漢字で「強か」と書く理由を、女よりその実はるかに弱く女々しい男どもには是非きっちり学んでほしいと思う。
 しかし、由佳や樋口が属する〈和族自治区〉及び〈東海省〉、つまり旧東京都と青森県と北海道を除いたこの列島全域では日本語教育が完全に廃止されており、しかも近い将来には違法化までされそうなので、その機会は永久に訪れないかもしれない。

 抜け道の反対側に出る。中央通りの二ブロック手前にあたる、向かって右方向の一方通行道路。樋本が歩く速度を上げた。身長一八五センチメートルという、兵士としては決して大柄ではないが、平均的な日本男性よりは遥かに長身かつ筋肉質の樋本と、身長一七五センチメートルで股下八三センチメートルというモデル並みの体形を誇る由佳の歩幅はそれほど変わらない。機械のような正確さで足を運ぶ樋本の速度に付いていくのも、子供の頃からダンスで鍛えた由佳にしてみれば朝飯前だ。普通の女性であれば二、三十メートルも歩かないうちに音を上げるだろう。
 目的のビルがすぐ左側に見えている。そして右側には、酒屋のロゴが側面に貼られた白いハイエース。その運転席には、白いキャップを被り、紺色のエプロンを付けた若い男が手元のクリップボードに何やら書き込んでいる。トランスポーターの徐音繰だった。
 由佳は頭の中で、ミッション本番前の最後のおさらいをする。チームリーダーは今目の前を歩く樋本保雄、上階のバーカウンターでターゲットである黄の近くに座るポイントマンが今里慶一郎、離脱する際の〈足〉であるハイエースで待機するトランスポーターの徐音繰、ここから一ブロック離れたコインパーキングで様々なバックアップ機材と共に待機し、周辺警戒と通信と全員の位置確認の責任を負うラジオマンの王麗孝、そして後方警戒は、今回が初仕事になる自分、テイルガンの佐野由佳だ。
 ターゲットの黄延威。どこの誰で何をしたせいで誰にどんな目に遭わされるのか由佳の知った事ではないが、中央から和族自治区に派遣された党高官と聞いている。それが国連暫定統治区である旧東京に来て何やら問題を起こしたらしい。その後に那覇のNPO法人が突然登場し、エージェントを通して樋本に黄の拉致を依頼したのだった。
 黄は国連暫定統治区に三週間滞在する予定で、中央が党高官の出張時滞在用として汐留に用意したタワーマンションと元麻布の大使館とを往復する毎日を送っている。黄の部屋は上下左右の部屋を大使館職員である警護部隊が固めており、大使館への往路と復路は黄が個人的に雇ったボディガードが二人、ぴったりと付き添う。こちらは要人警護任務に専従していた、旧警視庁警備部警護課所属であった元警察官だ。そして黄が昼間のほとんどの時間を過ごすのは治外法権を有する大使館。一見、拉致ミッションの入り込む隙間もない生活だが、人間の精神はこのように四六時中警護や、警護という名の監視に置かれている生活にいつまでも耐えられるようには出来ていない。
 国連暫定統治区に来てからほんの四、五日で、早速黄はたとえ数時間でも羽を伸ばせる場所を見つけた。銀座の飲み屋ビルに入った小さなバーだ。大店のクラブにも通えるだけの金銭的余裕はあるが、国連暫定統治区に隣接した和族自治区や、愛知、群馬、富山以西の東海省から出張ってきている中央の人間と鉢合わせするリスクを考えると、一見の客がまず来ない小さな店の方が都合は良い。その観点で、この古い雑居ビルの五階でひっそりと営業するコクーンという店は完璧だった。元々勤務していたクラブから独立したママが切り盛りするカウンターのみ十五席しかないバーで、接客をするのはママとアルバイトの女性。客層はママと昔なじみの和族とその連中が連れてくる堅気の内地人ばかりなので安心だ。黄は平穏で窮屈な日常にすっかり油断し、少なくとも週に三回は帰宅前に個人的ボディガードを帰し、一人でここを訪れるようになった。
「昭和後期から平成にかけての旧日本と同じだ。平和ボケで視野狭窄を起こしている」黄の素行調査と行動確認を行なっていたポイントマンの今里慶一郎が吐き捨てるように言ったものだ。
 しかしそれは、拉致ミッションには格好の環境である。チームリーダーの樋本はコクーンを拉致現場に選び、計画を練り上げた。そして斥候として、身分を偽った今里を客としてコクーンに送り込んだのだった。

『PMよりTL』ワイヤレスイヤフォンを通して今里の声が聞こえた。
「PM、送れ」ビルの一階ロビーの隅、屋内階段の裏側で由佳と待機していた樋本が応える。
『客は現在ターゲットと自分のみ。店側はママ一人、バイトはいない。今別の客から電話が入り、十五分後に二人連れの予約』押し殺した声。店内のトイレに籠って通信してきているのだろう。
「了解。これからエレベーターに乗る。作戦通りに行動」言い終わった樋本は大股でエレベーターに向かう。由佳も慌てて後を追った。その右耳に差されたイヤフォン越しに、『RM、了解』『TP、了解』と王と徐の声が入ってくる。

つづく

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