第15回『このミス』大賞 1次通過作品立読み 『小さいそれがたくさんいるところ』

『小さいそれがたくさんいるところ』

綾見洋介(あやみ・ようすけ)32歳
1984年生まれ。会社員。東京工業大学大学院終了。


○白木恭介

 母が亡くなった。癌だった。

「さてと、お前には苦労かけたな。新年度が始まったところなのに悪かった」
 葬儀が終わり、帰宅して一息ついたところで親父が申し訳なさそうに言った。
「なんで謝るんだよ。それより、親父の方こそ大丈夫なのか。寝てないんだろう?」
 親父は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一口飲んだ。
「ふー。なあに気にするな。疲れなんて寝れば吹き飛ぶさ」そして再度缶に口をつけ、ぐびぐびと音を鳴らした。
「あんまり飲みすぎるなよ。疲れてる時は酔いが早く回るよ」
 軽く親父を気遣い、僕はさっさと自分の部屋に行こうとする。
「……恭介」
「ん?」
「体には気をつけてくれよ」
 もう酔いが回ったみたいに親父の目は少し赤く、穏やかではあったけどなんとなく弱弱しく見えた。
癌は遺伝する、そう聞いたことがある。
 母さんの父、つまり僕から見てじいちゃんも癌で亡くなっていて、そのじいちゃんの弟も同様だった。親父が心配するのも無理のないことかもしれない。
「それはこっちのセリフだよ。あと二十年は生きてくれないとこっちも準備できないよ」
 僕は軽口をたたきながら二階の部屋に行った。僕の前では気丈に振る舞っているけど親父も泣きたいはずだ。一人の時間を持たせてあげようと、一人息子からのささやかな気配りだ。
 母さんの冬美は乳癌だった。突然胸に痛みを感じ、病院に行った時には既にステージ4と診断された。

――とても言いづらいことですが、……もってあと半年でしょう。

 医者のその言葉はまるでスローモーションで聞いたのかと思うほどゆっくりと脳に染み込んでいった。声色、口調、イントネーション、すべてが克明に刻まれている。
 一応、去年めでたく成人を迎えた僕だったけど、それでも母さんの死に耐えられるほどの精神力はなく、ショックは大きかった。
 頭が真っ白になった。そしてとめどなく涙がぼろぼろと溢れ出た。人前で泣くなんて十年以上したことがない。だけど不思議と恥ずかしいという感情はなかった。むしろ、これで自然なんだ、これが人間なんだ、と言わんばかりに大粒の涙が出た。
 濁流のように押し寄せた感情に少し思考できるようになると、なんで母さんが? とこの世の不条理を呪った。
 不意に僕の肩に腕が伸びてきた。
「……すまん。おれがもっとよく気をつけておけばこんなことには……。悪かった、許してくれ」
 いつもの野太い声ではなく、高く、かすれたとても弱弱しい声だった。親父は震える僕の肩を強く、とても強く抱きしめてきた。
 母さんには親父が伝えると言った。
 僕は病名と余命を聞いた時のショックを受ける母さんを見ていられなくて、わざと買い出しに出かけた。それでも病院内のコンビニに行く途中でぶわっと目にせりあがるものがあった。我慢できず壁を向いて瞼を腕で押さえ、泣いた。周囲はきっと驚いただろう。だけどそんなことは気にならず、とにかくここで涙を枯らしておきたかった。母さんに会う時、笑顔でいるために。
 十分な時間をおいて飲み物とお菓子を買って病室に戻った。僕の中ではかなりの覚悟を持ってドアを開けたつもりだった。だけど病室に入ると、予想外にも最初に目に飛び込んできたのは母さんの笑顔だった。ベッドに起き上がっていた母さんは親父と仲睦まじく談笑していた。
「あら、遅かったわね」
 僕に気づいた母さんはいつもと変わらぬ穏やかな口調だった。次に親父も振り返り、喉乾いたぞ、と笑いながら文句を言ってきた。一瞬呆気にとられながらもベッドに歩み寄る。
「ああ、ごめん。混んでてさ」
 苦しい言い訳だった。それにしてもどういうことだろう? 親父はまさか、母さんに言えなかったのだろうか。二人に紙パックのジュースを渡しながら考えた。
 二人は何事もなかったかのようにいたって普通だった。
「そういえば昨日のドラマに出てた俳優の人結婚したんだって、もうほんとショック」、「ああ、そうなのか、男には興味ないからわからんな」、「――でしょ?」、「ははは、――だってよ」
 取り立てて意味のない会話が続いた。きっと親父は母さんに言えなかったんだ、そうに違いない。
「……あ、もうこんな時間。そろそろ面会時間も終わる頃よ」
「そんな時間か。仕事してるとゆっくり過ぎるのにこういう時は早く過ぎるな」
 不満を漏らしながら親父は立ち上がった。次いで僕も立ち上がる。
 またくるよ、と親父が母さんに向かって右手を上げた。母さんは笑顔で頷いた。その横顔を見て初めて目じりの小じわに気づいた。母さんは今年四六歳ながら年齢よりも結構若く見える。だけどやはり歳は取るものらしい。
 母さんの視線が僕に移り、目があった。その表情は優しさに無念さが入り混じるような少し寂しい笑顔だった。眉をほんの少しだけ寄せ、憂いを含んだ瞳が僕を捕らえて離さない。
「……恭介、体にはくれぐれも気をつけてね。そしてお父さんを大事にしてあげて」
 母さんは全てを知っていた。親父は母さんに打ち明けていたのだ。 
 不意打ちだった。
 ずるいと思った。

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