第15回『このミス』大賞 1次通過作品立読み 『救済のネオプラズム』

 夏目は自分の席に我が物顔で座っている羽島悠馬に尋ねた。基礎講座の公衆衛生学教室の大学院生で、医学部時代から日本酒同好会で一緒だった友人でもある羽島は、統計解析を得意としていた。変人として知られ、蛇蝎のように嫌う人間もいたが、共同研究者としては頼もしい存在だったし、そうでなくても夏目とは妙に馬が合うところがあった。
「極めて良好だね。まあ、こんなにマウスを使わなくても良かったと思うけど、それは仕方ない。もう少しマウスを使っておけば有意差が出たのに、なんて後悔するよりはマシだ」
 動物の尊い命を犠牲にした研究であるため、抗がん剤の動物実験では、培養したがん細胞を使った試験管内の実験がまず行われ、さらに少数のネズミを用いた安全性や有効性の検討が行われたうえで、今回のような大規模な動物実験へと移行することになっていた。
 大規模といっても、実験に用いる動物は有効性が統計学的に確認できると予測される最小限の数に制限することが義務付けられているし、実験動物の苦痛が少ないように学内に設けられた動物実験倫理委員会の審査を通過しなければならない。
「見せてくれ」夏目は羽島の背後からディスプレイを覗き込んだ。細身の羽島は態度こそ大きいが、物理的に邪魔になることはない。
 モニターには統計ソフトに表示されたグラフと、統計処理の結果が示されていた。開発中の新薬を投与したグループと、偽薬を投与したグループには背中に植え付けたヒトのがんのサイズに大きな違いがあった。期待通り、新薬を投与したグループでがんが小さくなっている。グラフの横に表示されている統計処理の結果も満足のいくものだった。一見すると違いが大きいように見えても、統計処理の結果、科学的に意味のある違いではないことが判明して落胆することもある。
「素晴らしいじゃないか」夏目は羽島の肩を叩いた。
「可哀相なマウス達にヒトのがんを植え付けておいて治療ごっこをすることがそんなに素晴らしいことなのかい?」羽島は首を振った。
「茶化すな。いきなり臨床試験をしろとでも?」
「そんなことは言ってないさ」
「また、化学療法より早期発見や予防に力を入れるべきだと言うんだろう?」
「その通り」羽島は頷いた。「夏目はシンクの排水口が詰まって水が溢れていたらどうする? まず水道の蛇口を閉めるでしょ? 君達がやろうとしているのは水が出ている蛇口はそのままにして、溢れた水を拭き取るようなものなんだよ」
 羽島は少し馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

つづく

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