第15回『このミス』大賞 1次通過作品立読み 『救済のネオプラズム』

 重度免疫不全マウスが研究を行う上で重要なのは、その免疫力の弱さ故だった。哺乳類では自己と非自己を認識する高度な免疫機構が発達していて、通常であれば病原体は勿論、同じ動物の組織を移植した場合でも、移植組織は異物として速やかに排除される。一方、免疫機構が生まれつき貧弱な重度免疫不全マウスでは、種が異なるヒトの細胞であっても移植が可能だ。ヒトという種が異なる細胞をマウスに移植しているので、このような実験モデルは異種移植片モデルと呼ばれている。
 マウスに移植されたヒトがん細胞はマウスの体内で成長して腫瘍を形成し、さらに移植された場所から他の組織へ遠隔転移を起こすこともある。マウスに抗がん剤を投与して腫瘍の大きさや、転移の有無を確認して有効性を確認すると同時に、重篤な副作用がないかを確認して、その後の臨床試験に資するデータを得ることが出来る。
 研究で用いられるそれぞれのがん細胞には由来がある。
 現在行っている実験で使用しているヒトがん細胞には一昨年肺がんで亡くなった病理学教室の教授由来のがん細胞も含まれていた。彼は手術で摘出された自らのがんを観察して興味深い特徴を持つものであることに気付き、自らの最期の仕事として培養細胞株にしたのだ。
 一般には個体の死と共にがん細胞も死滅するが、実験室内ではがん細胞はその源たる個体の死を乗り越えて存続することがある。
 世界初のヒト培養細胞株であるHeLa細胞は、一九五一年に子宮頸がんで亡くなったヘンリエッタ・ラックスという女性から採取されたがん組織に由来している。六十年以上にわたり世界中で培養され続けたHeLa細胞の総重量は生前の彼女自身の体重を遥かに超えているだろう。
 もし自分ががんになり、摘出したがんを培養細胞にすることに対して同意を求められたとしたらどうするだろうか。自分が死んだ後も生かされ続けるがん細胞。生命を脅かす敵であると同時にまぎれもない自分自身でもあるがん細胞は無限に増やされ、こうして実験に使われて殺される。永遠に生かされ、そして殺され続けるのだ。
 細胞に意識はない。しかし想像してみてあまり良い気持ちになれるものでもない。
 それでも自分が珍しいタイプのがんになり、細胞の提供を求められれば同意するだろう、と夏目は思った。実験で培養がん細胞の世話になり続けておいて、自らは提供を断るということは自分にはできないのではないか。
 壁に掛けられている時計に目を移した。飼育室に入る前に、昨日測定した先行実験群のデータを統計学に明るい友人に渡してきた。今頃は解析が終了し、この抗がん剤にどの程度の効果があるのかが明らかになっている筈だ。
 一刻も早く飼育室を出て解析結果を確認したいと思ったが、まだあと一時間ほどは動物作業に従事しなければならなかった。
 研究生活のほとんどは毎日の地味で単純な作業の繰り返しだ。しかし、それでも多くの研究者が研究に魅了され、寝食を惜しんでその身を捧げるのは単純作業の日々の中で訪れる発見の瞬間が甘美なものであることを知ってしまったからに他ならない。
 夏目にとって今日は稀に訪れる歓喜の日、日頃の労苦が報われる日になる筈だった。

 動物室での作業終了後、夏目はSPF区域から出て更衣室で着替えてから廊下に出た。温度が一年中二十三℃に保たれ、湿度も厳密にコントロールされているSPF区域とは異なり、廊下には夏の熱気が紛れ込んでいた。エレベーターを待つ間に傍らの窓から外を見ると、過ごしやすい時期には学生達が語らいあう芝生の庭が熱気のために揺らめいていた。
 一階でエレベーターを降りると廊下に満ちる夏の気配は一層強いものになった。
 覚悟してから自動ドアの前に立ち、実験動物棟の外に出た。いよいよ息が詰まるような熱気を受け、小走りで近くにある石造りの医学部一号館に逃げ込んだ。ドアが開くなり、ひんやりとした空気が全身を包んだ。
 石の廊下にはいつからそこにあるのか判らない『下駄履き禁止』と書かれた木の札がかかっていた。今時、下駄など履いて来る人間がいるとは思えないが、確かにこの静謐とした廊下を下駄で歩かれたらかなわないだろうなと夏目は思った。
 長い廊下を横切り、趣を全く異にする近代的な三号館に入り、エレベーターで七階にある腫瘍内科講座の研究室へ向かった。
 院生室の扉を開けると、それぞれの席でパソコンに向かっていた院生全員がこちらを見た。にこやかな表情でこちらに視線を送る彼らの表情を見て、夏目は全てを悟った。
「どうだった?」

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