第15回『このミス』大賞 1次通過作品立読み 『救済のネオプラズム』

『救済のネオプラズム』

岩木一麻(いわき・かずま)40歳
1976年生まれ。埼玉県出身。国立がん研究センター、放射線医学研究所を経て、現在は医療系出版社勤務。


Ⅰ イニシエーション
1.
 純白のマウス達が飼育ケージの中で瘤を背負ってせわしなく蠢いていた。ケージは長方形をしたアルミ製で、大きな弁当箱を想わせた。マウス達の瘤は移植されたヒトのがん細胞が成長して出来たものだ。
 ヒトのがんを背負ったネズミ入りの弁当箱。こいつを平らげたら俺も人肉嗜食者の仲間入りというわけだ。
 東都大学医学部大学院生の医師、夏目典明は、そこまで考えたところで妄想をそれ以上発展させるのを止めた。昨日も数時間の仮眠をとっただけの、強行スケジュールで投稿論文の執筆をしていたとはいえ、昼食前の妄想としてはあまり好ましいものではない。
 ケージが並べられたステンレス製の作業台の周りでは、マスクと帽子、専用の作業着を着た人々が飼育ケージの蓋を開けて次々にマウスを摘み上げ、電子天秤に載せて体重を測定した後で、電子ノギスで瘤の大きさを記録していた。
「このケージの子達は随分と腫瘍が小さいですね」データを記録していた飼育補助員の女性が顔を上げた。「薬が効いてるんじゃないですか?」
「そうかもしれません。でも、そういうのを気にしないで測るようにしてくださいよ。そのためのブラインドテストなんですから」
 夏目は努めて軽い口調でそう嗜めた。マスクで口が隠れているため、飼育室内ではお互いの感情が読み取り難い。沢山ある飼育ケージのうち、どのケージのマウスに薬剤がどれだけ投与されているかは、実験者である夏目達にも判らないようなブラインドテストと呼ばれる試験デザインで行われていた。ブラインドテストは実験者による予断や期待が加わって、測定値が変わってしまうことを防ぐための措置だ。
 熟練した飼育補助員との信頼関係の構築は動物実験成功の絶対条件である。これは腫瘍内科講座教授、西條清四郎先生の教えであり、夏目自身、日頃から実感していることでもあった。ノギスによる測定値は、同じ腫瘍を複数の人間が測定して個人差が無いことを定期的に確認しているので、実験の精度が確保されていることは判っていた。今の注意はどちらかというと形式的なものだ。
「正確に測っていますよ」飼育補助員の女性は頷いた。「でもね、もう何年も実験のお手伝いをしていると上手くいっている実験とそうじゃない実験って、ブラインドテストでもなんとなく判っちゃうんです」
「そうだといいんですけどね」夏目は頷いた。
 実際、夏目もこの実験は上手く行っているという感触を掴んでいた。バイオベンチャーとの共同研究が行われているこの抗がん剤は期待できるかもしれない。
 表情によるコミュニケーション難しくしている上に息苦しいマスクや作業着は、人間を実験動物による汚染から守るために身につけられたものではない。それらは人間が持ち込む可能性のある外界の不浄からマウス達を守るために存在している。
 部屋の両側には八段のビルドイン式のステンレス製ラックが並び、ラックの各段にはアクリル製の扉が付いていた。この部屋だけでも千頭以上のマウスが飼育されているにも関わらず、ナッツを思わせるマウス特有の臭いはあまり感じられない。
 臭気がそれほど強く感じられないのは、作業室の気圧が高く維持されており、ラックの背面に設けられた排気口から臭気が常に外に押し出されているからだった。空気の流れは臭いを外に逃すためだけでなく、外界からの病原菌の侵入を防ぐエアバリアとしての重要な機能を担っていた。
 厳重な衛生管理が行われている飼育室の住人であるマウス達には、その外見からは判らない重要な特性があった。生まれつき重度の免疫不全なのだ。彼らは通常の環境ではすぐに感染症に罹ってしまうため、病原菌のいない清浄な環境で飼育する必要がある。
 外界からの病原菌の侵入を防ぐために、SPFと呼ばれる特定病原体フリー規格を満たしたこの飼育室に入る前には、作業従事者は着替えや厳重な消毒を行わなければならない。病原体のモニタリング検査も毎週行われていた。

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