第15回『このミス』大賞 1次通過作品立読み 『クルス機関』

『クルス機関』

森岡伸介(もりおか・しんすけ)46歳
1969年生まれ。愛媛県出身。横浜国立大学卒業。現在、地方公務員。


第一章 一〇月一二日―月曜日

 来客を告げるベルが、軽やかに鳴り響いた。
 来栖惟臣(くるすこれおみ)は、オーク材のドアから店内に身を滑り込ませた。細長い店だった。カウンターと、ストゥ―ルが一〇数脚。酒瓶が並ぶ棚の前には、初老のバーテンダー。日本人/黒いべスト/白いシャツ。蝶ネクタイをして、グラスを磨いている。客は一人だけだ。
 三連休の最終日―午後七時。バー《白夜》は、元町外れの老舗ホテル一階にあった。客層は外国人が多く、日本人は滅多に訪れない。今も、スラブ系の白人が一人居るだけだった。古き良き港町の面影。現在の横浜では、史跡に近い。薄暗い照明の下、来栖は男に近付いて行った。「コニャックを、《ペリエ》で割ってくれ」
 バーテンダーは、黙って頷いた。スラブ系の男は長身で、ダーク・ブロンドの髪を短く刈り込んでいた。グレーのスーツに包まれた身体も逞しい。年齢は四〇前後。カクテル・グラスを口に運び続けている。来栖の声にも、顔を振り向ける気配は無かった。男の隣に、腰を下ろした。
「ヘミングウェイの酒か」日本語で話し掛ける。「ウォッカにドストエフスキーじゃないのか」
「それは、雪と氷に閉ざされた田舎者の好みだな」男は、フローズン・ダイキリのグラスをカウンターに置いた。流暢な日本語で答える。「私は、これから太陽の下で生きていくんだからな」
「あんたが《ヤンキース》の帽子被って、ビールにポップコーンってのは想像し難いがな」
「アメリカン・フットボールは、ルールが分からん」
「…野球だよ」来栖惟臣―神奈川県警警備部外事課所属の警部補は、男と握手した。「もう、とっくにワシントンかヴァージニア辺りだと思っていたが」
「あんたに、借りを返す必要があるからな」男の名は、ユーリ・ネクラーソフ。GRU―ロシア連邦軍参謀本部情報総局大佐。公安の《スパイ・ハンター》にとっては、宿敵の一人だった。
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 発端は、半年前に遡る。
 リチャード・ベンソンなるアメリカ人が、ロシアに亡命した。五月中旬のことだ。彼は、NSA―国家安全保障局の職員だった。NSAは、《エシュロン》と言う世界規模の諜報システムを運用している。携帯/メールその他あらゆる通信を傍受、分析することが可能。各国の協力体制で成立し、日本も加盟国の一つとなっていた。
 ベンソンは亡命直前、《エシュロン》の運営状況をネットに流出させた。主な内容は、極東における情報収集に関する事項だった。日中露韓朝の指導者層に対する工作が中心だ。同盟/非同盟を問わず、アメリカが広く盗聴等を行っている証左となった。
いわゆる《ベンソン事件》だ。
 亡命先のロシアに対しては、別の極秘情報も提供したと言われている。アメリカの諜報機関は、多大な打撃を被ることとなった。逆に、ロシアは大きなアドバンテージを得たことになる。アメリカは、すぐさま反撃に出た。ウィリアム・アンダーソンから連絡があったのは、その頃だった。
「アメリカで長期休暇を過ごしたいなんてロシア人、知りませんかね?」
 ウィリアム・アンダーソンは表向き、在日アメリカ大使館の職員だ。いつも温厚な笑みを浮かべた初老の白人。実態は、CIAこと中央情報局所属のCO―工作(ケース・)担当官(オフィサー)。日本国内で、何名もの現地人エージェントを操っている。《ビル爺》と言えば、極東の諜報界では知らぬ者はない名物男だった。小太りで、薄い頭は白い。二〇年以上日本で過ごし、流暢な日本語を操る。
「亡命させる気ですか?」来栖は答えた。「《狸穴》が黙ってないでしょう、そんな真似」
 《狸穴》とは、在日ロシア連邦大使館を指す。所在する地名から、そう呼ばれていた。ロシアのスパイは、大使館勤務の書記官又は駐在武官等を装っていることが多い。CIAは、やはり大使館の所在地から《赤坂》と呼ばれることもある。「そこを、《クルス機関》のお力で一つ」
「やめて下さいよ、それ。皆が、勝手に言ってるだけで。知ってるでしょう?」
 《ビル爺》―ウィリアム・アンダーソンに会ったのも、バー《白夜》だった。相手が相手だ。恩を売っておいて損はない。来栖は、ロシア事情に詳しい情報筋を当たった。ユーリ・ネクラーソフが、本国の権力闘争に巻き込まれた話を聞いた。数か月以内に、聞いたこともない国へ飛ばされる。
 ネクラーソフとは、以前から面識があった。二年前のことだ。影山と言う防衛省職員がいた。チャイルド・ポルノを愛好する性癖の持ち主。特に、北欧の幼女が好みだった。ロシアン・マフィアが密造したソフトを、違法に入手していた。それが、ネクラーソフの知るところとなった。リクルート―協力者獲得工作に利用した。自ら調教師(ハンドラー)となり、防衛省の機密事項を入手するのが狙い。弱みを握られた影山は、籠絡寸前となっていた。

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