第14回『このミス』大賞 1次選考通過作品 立ち読み 『仮性の狂気』

『仮性の狂気』

烏丸少吾(からすま・しょうご)51歳
1964年生まれ。
現在は無職。


           1

 くたびれたアスファルトの道路をしばらく歩いていると、後ろから車の音が聞こえてきた。振り返ると、巡回バスがすぐ目の前まで近づいている。フロントガラスの上に「十日市場駅行き」の表示文字がある。
 沢村は慌てて手を挙げた。停留所ではないからバスが止まってくれる確率は低い。都内ならばまず素通りしてしまうだろう。わずかな期待を込めての行動だった。
 だがそのわずかな期待に運転手は応えてくれた。バスは沢村を十メートルくらい過ぎた場所で停止した。
 沢村は小走りに進み、開いた昇降口からバスに乗り込んだ。
「すみません」
 沢村が頭を下げると、運転手が口を開いた。「チケットはありますか」
「あ……いいえ」沢村は戸惑いながら答えた。
「それじゃあ、ここに二百円入れて下さい。」運転手は料金ボックスを指さした。
 そこで沢村は、はっとなった。カネはあるのか──。
 沢村はデイパックを肩から外し、中から財布を取り出した。開いてみると、一万円札が結構入っている。ファスナーの部分を開けてみると、小銭もいくらか入っていた。心の中で胸を撫(な)で下ろしながら、沢村は財布から百円硬貨を二枚取り出して料金ボックスに入れた。
 バスはすぐに発進し、沢村は降り口近くのシートに腰を下ろした。沢村以外の乗客は、七十歳前後と思われる老女ひとりだった。最後部の席にちょこんと座り、うつらうつらしている。
 沢村は窓の外に目を向けた。近くにゴルフ場の森林が広がり、その向こうには富士山が見える。頂は綿のように広がった白い雲に隠れていた。
「十日市場」という駅から電車を乗り継ぎ、ようやく沢村は三鷹市にある自宅にたどり着いた。だが沢村は今、鍵を持っていない。真希はいるだろうか。美優は?
 沢村は玄関扉の前に立ち、インターホンを鳴らしてみた。自分の家のインターホンを鳴らすのは、めったにない経験だ。
〈はい〉
 聞きなれた真希の声を耳にし、沢村の心に安堵(あんど)の気持ちが生まれた。
「俺だ。鍵を持ってないんだ。開けてくれ」
 ほどなくして扉の向こう側で、がさごそと物音が聞こえてきた。しかし、いくら待っても扉が開かれる様子はない。
「何してるんだよ。早く開けてくれよ」
 沢村は苛立(いらだ)った。そこに真希がいることは間違いない。
「何だよ、真希。開けてくれよ」
 苛立ち紛れに沢村は、扉をどんと叩いた。だが、それでも真希は開けてくれない。それどころか、家の奥に去ってゆく足音が聞こえた。
 どうしたんだ。何で開けてくれない──。
 日頃からぞんざいな態度を取っている夫への当て付けなのか。それとも沢村が家に入っては都合の悪いことでもあるのか。
 沢村が玄関の前で途方にくれていると、後ろで自転車のブレーキ音が聞こえた。振り返ってみると、止めた自転車の脇に、学校の制服を着た美優が立っている。両手はまだハンドルを握っていた。沢村は安堵して美優に声をかけた。
「ああ、よかった。父さん、鍵なくしちゃってさ」
 しかし美優は何も答えず、正面から沢村を見据えている。その強張(こわば)った視線には、どこか非難の色が感じられた。
「どうしたんだよ、美優。何をそんな怖い顔してるんだ?」
 沢村は歩み寄り、美優の肩に手をかけた。すると美優は、やだっ、と言って沢村の手を振り払い、道路の反対側まで逃れる。ハンドルを放された自転車が道に倒れ、ガシャンと大きな音を立てた。
 そうか。いつもの反抗か──。
 しかし美優に鍵を開けてもらわないことには、沢村は家に入れない。
「なあ、美優──」
「来ないでっ!」沢村の声を遮るように、美優が叫んだ。
 予想を超えた美優に剣幕に、沢村は思わず怯んだ。美優に伸ばしかけた手が、空中で停止した。
「何だよ、美優。どうしてそんな態度とるんだよ」
 すると、美優の叫び声を聞きつけたのか、向かいの家の玄関扉が開き、男が顔を現した。数か月前に引っ越してきた染谷という中年の男だ。まだそれほどの付き合いはないが、挨拶程度の会話は何度か交わしている。
「何かあったんですか?」染谷が棘(とげ)の混じった声で訊いてきた。
「すみません。ちょっと強く叱りすぎてしまいまして」
 沢村はとりあえず言い繕った。だが染谷は渋面を崩さず、怪訝(けげん)そうな目を沢村に向けている。
「普段あまり叱ったことがないものだから、この子もびっくりしてしまったようで」
 そう言って美優に目を戻しかけ、沢村は拍子抜けした。すでにそこには、美優の姿はなかったのだ。そして、急いで玄関に駆け込む美優の後ろ姿が視界の端に映った。

ページ: 1 2 3