第15回『このミス』大賞 1次通過作品立読み 『パスワード』

『パスワード』

志駕晃(しが・あきら)53歳
1963年生まれ。明治大学商学部卒業。会社員。


第一章

 着信音が鞄の中から鳴り出した。
 午前中の静かなネットカフェには、ちょっとうるさ過ぎる音だった。慌ててスマホを取り出し店を出て、エレベータホールにまで移動する。着信ボタンを押そうとすると、そこに自分好みの切れ長の眼をした黒髪の美人と、にやついた見たことのない男のツーショットの待ち受けが表示されていた。
 てっきり自分のスマホかと思っていたが、昨晩タクシーの中で、このスマホを拾ったことを思い出す。「落し物ですよ」とその場で運転手に渡そうかとも思ったが、酔っていたせいもあり何かの役に立つかもしれないと、つい鞄の中に入れてしまったのだ。
 そんな間にも、何かをせかすように着信音が鳴っている。
 はたしてこれに出るべきだろうか。
 改めてディスプレイを見ると、稲葉麻美と表示されている。
 この待ち受け画面に写っているこの黒髪の美人が、稲葉麻美なのだろうか。
 そう思うと急に興味が沸いてきた。彼は周囲に誰もいないことを確認するとそっと着信ボタンをタッチする。
『もしもし』
 やはり、若い女性の声だった
「……もしもし」
『…………もしもし?』
「もしもし」
『……………………もしもし?』
「……もしもし」
『あなた、誰ですか?』
 最初のやわらかい声から、明らかに警戒感のある硬い声質に変わっていた。さて何と答えるべきか。
「電話を掛けてきて、いきなり名前を訊ねると言うのも失礼な方ですね」
 ちょっと不快そうにそう言ってみる。
『この電話は、富山誠のスマホじゃないんですか』
 富山誠? 
 なるほど、この待ち受け画面のにやついた笑顔の持ち主が富山誠という男なのか。こんな美人を彼女にして、ちょっとした嫉妬心が彼の中に急速に芽生える。
「さあ、このスマホの持ち主の名前はわかりませんが、あなたが稲葉麻美さんだってことはわかりますよ」
 別に嫌味で言ったわけではない。今、自分が知りえる情報でこのスマホの持ち主を特定するにはそう答えるしかなかった。
『なんで、私の名前を知ってるんですか』
 いきなり自分の名前をフルネームで呼ばれて、かなり動揺したようだった。
「ははは……」
 思わず声にして笑ってしまった。
『何がおかしいんですか』
 明らかに気分を害したらしい。いよいよ喧嘩でも吹っかけてきそうな勢いだ。
「いや、失礼しました。なんであなたの名前を知ってるかといえば、このスマホのディスプレイにそう表示されてるからですよ。いや、このスマホをさっき拾いましてね。交番にでも届けたほうがいいものかと、ちょっと考えていたところなんですよ」
 咄嗟にそんな嘘が出た。
 学校でもすぐに辞めてしまった会社でも、昔からその場凌ぎのもっともらしい嘘は平然と付ける才能があった。
『あ、あ、あ、大変、失礼しました。富山のスマホを拾って下さったんですね。どうも、ありがとうございます。すいません、先ほどは、色々、大変に失礼なことを言ってしまって……』
「ははは、いやいや、いいんですよ。気にしてませんから。このスマホはあなたの彼氏のものなんですね?」
『えっ、そうかも……知れません』
 なぜ「はい、そうです」と答えないのだろうか。
 ひょっとして、まだこの稲葉麻美とスマホの持ち主は恋人関係ではないのだろうか。
「さて、どうしましょうか、このスマホ。交番に届けるよりもどこかに郵送した方が良いですよね。交番に届けたところで、このスマホが彼氏に届くわけではありませんからね。どこかにお送りましょうか」
『え、さすがにそれは申し訳なさ過ぎます』
「そうですか。じゃあこのスマホをすぐに止めてください。新しいのに買い替えるならば、こっちで勝手に処分しますよ」
 まあ、そんなことはしないだろうと思ったが、一応、提案してみる。そんなことをしたら、中のデータは引き継げないからだ。
「いやいや、それはもったいないです」
「では、どうしましょうか」
『……じゃあ、本当に申し訳ないですが、着払いでいいので送ってもらえますか』
「まあ、いいですよ。乗りかかった船ですから。連絡先を教えてもらえますか」
 着払いだとこちらの連絡先を書かなければいけなかっただろうか。そこがちょっと気になったが、金をこっちで払えばなんとかなるだろう。最悪、約束なんか破ってしまえばいいのだから。

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