第20回『このミス』大賞 1次通過作品立ち読み 大学受験殺人事件

『大学受験殺人事件』

薮坂華依(やぶさか・はない)54歳
1967年生まれ。自治医科大学卒業。医師。


    国公立大学二次試験前期日程、第二日目

 骨折なんてありえない。
手すりをつかみ、便座から立ち上がった。左脚一本で立ったまま制服を整え、その足を軸に体を反転させ車いすに乗る。
車輪のロックを外し、洗面台へ移動した。
病院から借りてきた車いすはがっしりしていて重い。車輪を回すのも大変だ。加速するまでにかなりの力が必要だから。
重い楽器を持って鍛えた腕が、役に立つのは、うれしいような、悲しいような。
私が吹奏楽で使っている楽器は、ユーフォニアム。自衛隊に所属していた世界的に有名なソリストや、大ブレイクしたアニメの影響で、最近はある程度メジャーになったけれど、いまだに説明が必要な人も多い。吹奏楽に縁のない人には、『チューバを小さくしたみたいな形』と、簡単に説明する。でも、本当は全然違う。
ユーフォニアムは楽器を持ち上げて演奏するから、体幹と背筋と腕がすごく鍛えられる。なんなら、運動部より握力も背筋も数値が上の、私のスポーツテスト結果を見せてあげたい。肺活量だって水泳部に負けない。ま、とにかく、私の豪力を誇る腕をもってしても、この車いすは扱いづらい。加速後に一定の速度で走るのは楽だけれど、ブレーキもついていないためスピードを出せないし、狭いところや人の多いところでは時間がかかるばかり。
人がいなくなると自動でトイレの水が流れる。便器を洗浄する水音は思いのほか反響した。そのせいで、また一つ英単語が頭から流れ去った気がする。
深くため息をついてから、もし合格すれば、後期日程の受験はなくなるのだと、思い直した。今回の受験では、第一日目の昨日、英語受験は済ませている。
「悲観しない、落ち着け私」
一人きりの個室をいいことに、声に出して自分を激励した。
両腕を伸ばし、液体石鹸を手のひらで受け止めた。しっかり泡立て、良く洗った。童謡の『うさぎとかめ』を口ずさみながら。泡をすすぎ、鞄のポケットから先をのぞかせておいたタオルハンカチを引き出し、手を拭く。
目を上げれば、鏡の向こうには血色のないさえない顔。悲壮感この上ない。これじゃあ、面接官の同情は買えても、優秀そうな印象は与えられない。
私はゆっくり目を閉じ、深呼吸した。
ハンドクリームを取り出し手の甲にすりこみ、唇にリップクリームを走らせる。今は演奏をしないから、リップの減りが遅い。
ストレートの髪にブラシを当て、耳の高さで頭の後ろにひとまとめにした。おくれ毛に整髪料を付け、左右の耳の上をピンでとめる。長くなった前髪を片方に流し、ピンを直した。
ここから会場に向かう間に、乱れてしまうかもしれない。けれど、これは六年間で身についた、吹奏楽の大会の日のルーチン作業。
大切な決戦の今日、同じことをして自分を保とう。
白く、文字もロゴも入っていないマスクをつけた。習慣になってしまい、慣れたとはいえ、やはり面倒だ。言葉がはっきり聞こえないから、マスクが嫌いという人も多い。
でも、その点だけは、私は大丈夫。部活で鍛えたこの腹筋、大きくはきはきと答えるポテンシャルはある。問題は、答える内容が頭の中にあるかどうかだけ。それに、元々、喜怒哀楽が表情に出にくい私としては、面接中、マスクで顔を隠せるのは、メリットが多いかもしれない。ネガティブな印象を防げるだろう。
さらにいいところは、マスクは左の頬のほくろを隠してくれる。最大のコンプレックスを知られずに済むのは、マスクの長所だ。面接官がこのほくろを見つめていたら、私は恥ずかしくて話す事ができなくなってしまうかもしれない。
実は、マスクはラッキーアイテムなのかも。
よしよし、前向きになれてきた。
でも、先輩だけは、このほくろをハート形でチャームポイントだと言ってくれた。どう見ても不細工でいびつなだけなのに。
いけない、いけない。こんな大事な時に、先輩なんて思い出しちゃだめ。
息を吐いて両手で頬を叩く。頑張らなきゃ。
一番大切な、前期の国立二次試験。

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