第3回『このミス』大賞 1次通過作品 立読み

『白い荒野』 関根浩平

 一

 本城俊明は、運ばれてきた二杯目のコーヒーに手をつけないまま、テーブルに置いた携帯電話のサブ液晶に目を落とした。デジタル時計は,十一時二分を表示していた。この喫茶店に来てから、すでに一時間ニ十分ほど経過したことになる。その間,電話もメールの着信もなかった。由香里は、やはり来ないのだろうか。
 昨夜、メールを送った。もう一度だけ話し合いたい。前回待ち合わせした新宿の喫茶店で、ずっと待っていると書いた。由香里は、最後には会いに来てくれると信じていた。やはり、気は変わらなかったのだろうか。そうは思いたくなかった。病院勤務がまだ続いていて、遅れているだけと信じたかった。本城は、腕組みをしたまま、厚い一枚ガラスで隔てられた通りを眺めた。
 天皇誕生日の休日だった。雪が降るかもしれないという予報が出ていたせいか,翌日がクリスマスイブというのに新宿の人通りは少なかった。手を握り合ったままの若い男女のカップルが、急ぎ足で通り過ぎた。本城は、屈託のない男の横顔を目で追いながら、考えていた。もし、あの事故がなかったら、今ごろ自分はどうなっていたのだろうか。全てをリセットして、あの男くらいの年からもう一度人生をやり直せたら。
 本城は、店内の照明に反射してガラス窓に二重露出のように映っている自分の顔を見つめた。大学時代、ラグビー部員として活躍していたころの精悍な面影を僅かに残してはいたが、三十八歳の年齢は隠しようがなかった。日焼けで荒れた膚や目じりの皺。メガネもかけず大ぶりの目鼻立ちで実際の年齢よりも若く見られることを除けば、どこにでもいる平凡な中年男に過ぎなかった。
 本城の人生は傍目には順調そのものだった。一流大学を出て、一流商社に就職した。社内恋愛の末、結婚した。子供も生まれ、仕事も順調で、責任ある仕事も任されていた。本城の運命を狂わせたのは、交通事故だった。
 地元の神社の秋祭りに子供を連れてきていた。急に夕立がきて、慌てて家路につこうとしたときだった。不意にわき道から車が飛び出してきた。フロントガラスの油膜が視界を妨げていた。急ブレーキを踏んだが、間に合わなかった。小さな身体は、ボンネットに跳ね上げられた。五歳の男の子は、短い命を閉じた。
 運転者の過失が認められ、刑事処分が課せられた。しかし、本城の中では、鬱々とした日々が続いた。幼い我が子の命を奪われた憎しみは、やがて自分に向かった。子供をお祭りに連れて行った後悔に苛まれた。あのとき、自分が手を離していなければ、あの子の命は救えたのではないか。
 本城は懊悩した。自分のミスだと思った。仕事に没頭することで、全てを忘れようとした。それが不可能と分かってからも、仕事に逃避するしかなかった。本城には四人の部下がいたが、残業が続くと部下を早めに帰らせて一人で仕事をこなした。無理が続いた。仕事の疲労が抜けなくなり、蓄積していった。妻は、そんな本城に無関心だった。事故のことで本城を責めることはなかったが、そのとき以来、心を閉ざしていた。
 年が明けて、突然破綻がきた。身体に痺れがきて、起き上がれなくなった。しばらく休養した後、身体は元に戻ったが今度は集中して考えられなくなった。ミスも多くなった。最初は、ストレスのためと同情的に見ていた会社も、やがて我慢の限界に達し、事務管理部門への異動が決まった。体のいい左遷だった。与えられた仕事は、日々の取引データをまとめ社内用の閲覧サイトにアップするというだけの簡単な仕事だった。電話やメールに追いかけられることもなくなった。普通にやっても、一時間で終わった。最初のうちは、余った時間を遣り残した業務関連の専門知識の習得に当てていた。しかし、目標がなければ、それも長くは続かなかった。拘束された退屈な時間だけが流れた。これまで社内で親しかった同僚も、本城と出会ったときに目を逸らすようになった。無論、飲みに行く誘いも、ぱったりとなくなった。

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